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「道楽は、“人たらし”の原動力になる」

山下亀三郎伝・3

  • 山岡 淳一郎

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2008年12月22日(月)

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 山下亀三郎は、日本初の欧州定期航路に船出する「土佐丸」を横浜の野毛山から見送りながら、「船を持ちたい」と痛切に思った。だが、石炭商売の上昇気流に乗ってはいるものの、まとまった資金があるわけではない。

 事業を開拓したい亀三郎は、まず血縁者の「信用」を利用して、政財界のお歴々の懐に飛び込んでゆく。そして「建築道楽」の趣味を介して、さらに深く食い込んだ。家もまた商売になくてはならない「道具立て」だった。

(イラスト:茂本ヒデキチ)

 亀三郎は、下卑た言い方をすれば、「人たらし」であった。

 明るく、快活で人の気を逸らさない言動と細やかな気配りで、相手の心をがっちりつかむ。誰の懐にでもひょいと飛び込み、たちまち百年の知己のような関係をつくった。かれに才能があったとすれば、この点だろう。ただ「人たらし」の才も一般的な商売関係に終始するだけだったら、海運王と呼ばれるほどの「大化け」はしなかったに違いない。

 山下の飛躍は、政官財の上層部に築いた「人脈」がものをいっている。
 そのお歴々と係わる橋渡しをしたのは、親戚の幼なじみ古谷久綱という人物だった。

 古谷は、亀三郎の従妹の長男で年齢は七つ下。同志社大学、ブリュッセル大学を卒業し、国民新聞の記者を経て、東京高等商業学校(現一橋大学)の教授となった。同志社進学に際して、山下に学資の無心をしている。

 このときは、「卒業後の身の振り方を俺に任せるなら、学資を出そう」と言う山下に「そりゃ困る」と古谷は引き下がった。お互いズケズケ本音で話せる仲だった。

 明治の元勲・伊藤博文が四度目の内閣を組織すると、古谷は、乞われて首相秘書官に転身した。以後、伊藤がハルピンの駅頭で銃撃されて亡くなるまで秘書官を務める。伊藤が韓国統監だった頃、山下が下関から鮒を携えて京城を訪ねることができたのも、古谷が秘書官だったからである。

 伊藤の死後、古谷は宮内省式部官を経て愛媛県から衆議院選に出て、当選2回。政友会の請願委員長として活躍するが、1919年、山下の絶頂期に肺炎で他界する。

 亀三郎の人間関係の風景は、古谷とのつきあいで変わった。古谷は、おそらく伊藤の口利きもあったのだろう、長州閥の重鎮、山尾庸三の四女と結婚している。山尾は工部大学校(東大工学部の前身)を設立した「興業の父」ともいえる存在で、若かりし頃、伊藤とともに品川御殿山の外国公使館焼打ちを行い、一緒に渡英した仲だ。

 古谷家と山尾家の結婚式は、上流階級の社交場として知られる「星ヶ岡茶寮」で行われた。山尾家の親族には木戸孝正侯爵はじめ男爵、子爵がずらりと並んでいた。

 かたや古谷家側の親族総代は……、山下亀三郎かめ夫妻であった。

建築道楽と宴会男のかけ算で人脈をのばす

 冷や汗もの婚礼式典だった。袷のちょうどいい着物がなかったので、山下は慌てて紋付をこしらえて式に臨んだ。結婚後も華族とのつきあいは肩が凝る。古谷の妻の「里帰り」の宴に山下夫妻も山尾家に招かれた。噺家の三遊亭遊三が呼ばれていて、落語を聴かされるが一向に笑えない。宴が終わって、人力車で古谷の官舎に戻り、「客に呼ばれてこんなに苦しい目にあったのは初めてだ」と言い合った。

 とはいえ、山下亀三郎、華族のなかで首をすくめているばかりではない。「人たらし」の才が、むくむくと頭をもたげる。古谷家の親族代表として山尾家を接待しなければ顔が立たない、と大胆にも考えたのである。

 じつは、山下には「建築道楽」の性癖があった。商いの状況に応じて、次々と家を住み替えている。

 横浜に居ついた当初は、真砂町の古材で建てた借家に入った。一階が四畳半と三畳に二畳の玄関、二階が四畳半、家賃は5円。ここに妻を迎えて新婚生活を始めた。次に向かいの家賃7円の家に引っ越す。洋紙販売を始めると家賃15円の商家風の家に移り、丁稚も二人雇った。さぁ、これらかというときに大きな借金を背負い、店をたたんで「肩身の狭い」借家に移る。

 石炭で芽が出て、羽振りがよくなると野毛山下の借家に転宅。家賃は12~13円だった。土佐丸の船出を見送り、伊勢山皇大神宮で麦酒をあおったのは、ここに住んでいたときだ。さらに石炭で儲け、霞町の家賃30円の広い家に移った。

 古谷の結婚式に出席した当時は、霞町の家を買い取り、二階を増築。倉庫も建てて商家を構えていた。小さいながらも初めての別荘を逗子に持っていた。

 わずか十年足らずの間に家賃5円の借家を振り出しに邸宅と別荘を持つに至った。その間、借金取りに追われて蟄居したことを考えれば、凄まじい浮き沈みである。人生自体がジェットコースターに乗って賭博を打っているようなものだ。

 それはともかく、山下の「建築道楽」は成りあがりの典型みたいだが、ただ贅沢を楽しむためのものではなかった。独特の人心掌握術が、そこに秘められていたのである。

 山下は、山尾家の親族である木戸侯爵や古谷夫妻を逗子の小別荘に招くプランを立てた。

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