(前回から読む)
(イラスト:茂本ヒデキチ)
世界恐慌が猛威を振るう1930年代初頭、日本でも多くの企業が倒れ、失業者が巷に溢れた。この暗黒時代、したたかに生き延びたベンチャー経営者がいた。
山下亀三郎、「山下汽船(合併を経て、現在は商船三井に吸収)」の創業者だ。
バブリーな成金たちが恐慌で次々と姿を消すなかで、「泥亀」と見下されながら、山下は生き残った。商店奉公から身を起こした山下は、学問もなく、スタート時は平凡な、どこにでもいそうな商人にすぎなかった。商いの天才ではない。それが、人との出会いと独自の「人間学」を磨いて、日本一の傭船主となり、「海運王」と呼ばれるようになる。
凡才の人生だからこそ、現代にも通じるサバイバルのヒントが隠されている。
第二回は「つかんだ動機は、手放すな」。
元祖フリーター、親に「どうかコロリで死んでくれ」と疎まれた
山下亀三郎は、1867(慶応3)年、伊予宇和島に近い喜佐方村の庄屋に生まれた。
16歳で宇和島中学を自主退学し、家を飛び出した。京都に出て代用教員をした後、東京に移り、明治法律学校に進む。山下の著書「沈みつ浮きつ」――「浮きつ沈みつ」では最後に沈みっぱなしでよくない、との理由でこう名づけた――によれば、私立学校で講師の真似事をしているうちに「吉原通い」を覚えて沈没。法律学校も辞めてしまう。
二十歳過ぎまでろくな職につかず、親のスネをかじりまくった。フリーターの元祖のような生活ぶりだ。田舎の母は、末っ子の亀三郎の放蕩に愛想をつかす。
東京で数百人が命を落とすコレラが流行ったとき、母は、毎朝、近所の氏神さまにお参りをして「どうか亀がコロリに罹って死にますように」と本気で祈ったというから恐れ入る。コレラなら長患いをせず、コロリと逝くので、家族に迷惑がかからない、とか……。ちかごろの息子を溺愛する母親には真似のできない芸当である。
とにかく、親もほとほと手を焼いたようだ。
しかし亀三郎、ただの道楽息子ではなかった。世間という学校で人情と商いの機微を学んだ。目端がきく亀さんは、22歳で製紙会社の店員に雇われ、マンガン商店の番頭で自信をつけ、開港地横浜に居ついた。所帯を持ち、洋紙販売店を開く。丁稚も二人雇った。
が、しかし世のなかは甘くない。妙な債権をつかんでしまい、借金がかさんで洋紙店は、あえなく店じまい。債務の整理に汲々とした。
本人曰く「保証義務のために自分の表札を出すことが出来ず、山下かめという妻の表札を上げて住み、その一、二年における一番肩身の狭い思いをした」。奥さんの名も「かめ」。似たもの夫婦なのだろう。もしも借金取りから逃げていたのだとすれば、「亀三郎」でも「かめ」でも大して変わりがない気もするが……。
「船を!」人生を貫く動機に出くわした泥亀
あっちに頭をぶつけ、こっちで躓き、世の荒波にもまれ続けた山下の運気が上向き始めたのは、石炭商売に係わってからだ。
当時の石炭は、現代の石油に匹敵する最大のエネルギー資源だった。
船や列車の蒸気機関を動かしているのは石炭。塩や砂糖の精製にも大量に使われる。暖房も石炭。このエネルギー資源の供給を握っていたのは三菱、三井の大財閥だった。三菱は長崎の高島炭鉱を所有し、三井もまた福岡の三池炭鉱を払い下げられ、アジアに販路を拡張していた。石炭とともに産業が勃興する。
山下は、関西の大手石炭卸商と組んで、「横浜石炭商会」を立ち上げた。石炭は高値で面白いように売れた。債務を返済し、野毛山の麓に家を借りて「亀三郎」の表札を出す。1896(明治29)年の早春、やっと肩身の狭い思いから解放されつつあった山下は、生涯忘れられない出来事に遭遇した。
「船を持ちたい」と痛烈に思ったのは、このときだった。一生を貫く「動機」をつかんだといえよう。
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1959年愛媛県生まれ。ノンフィクション作家。「人と時代」「21世紀の公と私」を共通テーマとして、政治、経済、近現代史、医療、建築など幅広く執筆。「3・11」以後は、福島県南相馬市、相馬市、福島市などで取材を重ね、「アエラ」他に連続的に短編ノンフィクションを掲載中。『







