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解雇、増産、定年なし“たわけ”の哲学

ヤイリギター社長 矢入一男

  • 酒井 香代

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2009年3月6日(金)

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 1990年3月、東京ドーム。ビートルズ時代以来、24年ぶりに日本公演を果たしたポール・マッカートニーの手にあった漆黒のギターは、A.Yairi(アルバレズ・ヤイリ)のYD-88だった。

 輸出用のA.Yairi、国内ブランドのK.Yairiと、岐阜県可児市のわずか30人ほどの職人を中心にした会社、ヤイリギター。ここから生み出されるアコースティックギターは、日本国内はもとより世界中のプロのギタリストやアマチュアプレーヤーを今もうならせ続けている。

 かつて日本にもギター製作会社は100以上あった。特に名古屋を中心とする中京地方には50年代、50以上のギター工場がひしめいていた。しかし今ではその数は10分の1になっているという。

 消えていった数多くの会社と、世界中のギターファンにその名を知られたヤイリギターはどう違うのだろうか。

「新しいことやら、難しいことは分からん」

 32年生まれの喜寿。ヤイリギターを率いる矢入一男の口癖は、「たわけ」だ。

 「新しいことやら、難しいことは分からん。ただ、ギターのことだけは、『たわけ』の一つ覚えと、自負しています」

 3歳の時に父親が、「矢入楽器製作所」を名古屋に設立するが、まもなく時代は戦争に突入。戦時中の工場は、砲弾を入れる木箱の製作などでしのいでいた。

 45年には、名古屋の工場を空襲で焼け出され、岐阜県の可児市へと移転する。戦後、木琴など楽器製作をしながら、陶器用の箱も作らねば会社は立ちゆかなかった。やがて60年前後、米国から安い工賃の日本の工場へ、ギター製作が発注されるようになった。矢入楽器製作所も米国向けギターの製作を始めた。

 高校卒業後、家業を手伝っていた矢入は、62年、30歳でギターの本場を見るために渡米する。そこで知ったのは、日本で作られる「3ドルギター」はおもちゃ扱いだということだった。マーチンやギブソンといったアコースティックギターの最高峰とは比べものにならなかった。

 一念発起した矢入は、木工訓練校の生徒に声をかけ、メード・イン・ジャパンの本格的ギター作りへとスタートを切る。65年には父の会社を受け継ぎ、ヤイリギターを設立。K.Yairiブランドが誕生する。

 時代は、フォークブームを迎えていた。大量生産のギターが飛ぶように売れ始め、周りの会社は好景気を迎えていた。しかし「たわけ」の矢入は、手作りにこだわり、素材にこだわり、少量生産を貫いた。品質の向上だけを目指した。

 「若い頃の冒険心やろうね。怖さ知らずやった」

人間にも素材にも効率を求めない

 ヤイリギター設立当初からの職人、松尾浩は言う。

 「世の中には見えないところをごまかしているギターもある。けれど、音は正直。寿命が違ってくる。職人は、誠実さとまじめさと嘘をつかないことだ」

 この会社では、決して効率を求められることはない。それは、人間に対しても、素材に対しても同じだ。

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