
(前回から読む)
山下亀三郎が精魂を傾けた日中和平工作は、夢物語に終わった。
日米開戦前夜、政府間交渉が暗礁に乗り上げるのを眺めながら、山下は、側近に嘆いた。
「こりゃいけない。この交渉は役人や軍人がやることじゃない。日本の財界を代表する人が渡米して話さなければ、まとまらないよ」
商人は「損して得を取る」交渉に長けている。商売は、白か黒かではなく、灰色決着でも関係を保ち続けることができる。だが四角四面の役人や自己をリアルに認識できない軍人には、それが難しい。
超大国のアメリカと腹を割って融通無碍に交渉できる財界人……山下は誰を思い浮かべていたのだろう。一説には三菱財閥の四代目総帥・岩崎小弥太を想定していたともいわれている。
しかし、日本政府は山下が最も怖れていた方向へと舵を切った。
日米開戦の直接的引き金は、東南アジアの資源、とくに蘭印(インドネシア)の石油獲得であった。米国はイギリス、オランダ、中国と共同して対日包囲網(ABCD包囲網)を敷き、経済封鎖を敢行。石油や鉄などの戦略物資が日本に入らなくなった。
1941年7月、日本軍は、インドネシアに進出する足がかりを確保すべく、南部仏印(ベトナム南部)に進駐した。米大統領ルーズベルトは、日本に東南アジア侵略の意思ありとみて、直ちに在米日本資産凍結令を出す。さらに石油輸出を全面禁止。ぐいぐいと日本を締め上げた。
そして、同年12月、日本軍はハワイの真珠湾を攻撃。これを機に米国は参戦した。
太平洋戦争の火ぶたが切って落とされる。ナチス・ドイツの猛攻撃に耐えていた英国首相のチャーチルは、真珠湾攻撃の日の「感銘」を次のように記した。
「……真珠湾攻撃によって、われわれは戦争に勝ったのだ。日本人は微塵に砕かれるであろう。(中略)米国は『巨大なボイラーのようなもので、火がたかれると、作り出す力に限りがない』。満身これ感激と興奮という状態で私は床につき……」
長期的な戦略を欠く日本は、地獄へ転がり落ちてゆく。
ロジスティックスを徹底的に軽視した日本軍
日米開戦が決まると、山下は東條英機が首相を務める政府の要請に応えた。山下汽船の船を真珠湾攻撃の燃料補給戦として差しだした。海運界の長老である山下は、業界を戦時体制に統制する先頭に立った。
リアルに物事を考える山下にとって、各船社の船をとりまとめて兵員や物資を運ぶために用立てることは、精神的苦痛が伴ったことだろう。日米開戦当時の両国の経済力を比較すると、国民総生産は日本1に対して米国12.7。鋼材は日本1に米国17.7。石油に至っては、米国は日本の721倍の規模であった。
世界経済と直につながって船商売をしてきた山下には、この差は絶望的に見えたはずだ。そのうえ送り出した民間の船舶は、丸裸で太平洋に放り出され、敵の潜水艦や戦闘機の餌食にされたのである。
日本軍は東南アジアの資源を狙って進駐しながら、それを本国へ輸送する思考が決定的に欠如していた。インドネシアから石油を運ぶには何千キロものシーレーンを通らねばならない。ところが、この航路を守る戦略も装備もまったくなかったのだ。恐るべきことに開戦当時、輸送船の護衛に当る専門艦艇は、ゼロ。一隻もなかったのである。
海軍では船の護衛任務を「くされ士官の捨てどころ」とバカにしていたという。陸軍でも物資輸送を担う輜重兵を「輜重輸卒が兵ならば電信柱に花が咲く」とたわけた言い草で軽んじていた(このような最前線の戦闘しか眼中にない日本人のふるまいは、こんにちのビジネス界でも散見される。営業、営業で販売することしか念頭になく、肝心の商品開発が先細る企業とか……)。
それにしても、輸送・補給の任務を見下す軍のために、健気にも大海原へ出て行った船員たちの心中を想うと、涙を禁じえない。輸送船「能登丸」の元艦長で「雷跡! 右30度」という著書がある宇野公一は、こんな談話を残している。
電信柱で「武装」した輸送船
「いくら輸送船でも少しは武装しないといけないので、わずかですが機関銃や大砲も据え付けることになったんです。しかし、これがぜんぜんたりない。アメリカ潜水艦もこっちがまったく無防備だと解れば余裕をもって浮上して攻撃してきますから、コケオドシでも何かいるんですよ。
それで考えたのが電信柱を切り倒して来て、大砲と同じ色のペンキを塗って据え付けておく方法。『擬砲』とか『木造砲』とかいいましたね。電信柱だから見かけは立派な20センチ砲に見えるんだが、こんなゴマカシがいつまでも通用するわけはありませんよ」(「日米開戦 勝算なし」角川文庫)
能登丸は、フィリピンでのレイテ決戦で米軍機の攻撃を受け、撃沈されている。
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1959年愛媛県生まれ。ノンフィクション作家。「人と時代」「21世紀の公と私」を共通テーマとして、政治、経済、近現代史、医療、建築など幅広く執筆。「3・11」以後は、福島県南相馬市、相馬市、福島市などで取材を重ね、「アエラ」他に連続的に短編ノンフィクションを掲載中。『







