ピュリツァー賞――。この賞を耳にしたことがある人は多いでしょう。しかし、この賞がどういった経緯で誕生した賞なのか、そして、どんな部門があるかまで、知っている方は案外少ないかもしれません。
多岐にわたる受賞分野
そもそもピュリツァー賞は、米国の新聞王・ジョゼフ・ピュリツァーの遺言により、「ジャーナリストの質の向上」を目的として1917年に設立されました。コロンビア大学におかれた委員会が運営し、毎年4月に受賞作が発表されています。報道写真部門が設立されたのは1942年。2011年までに70年の歴史を数えます。1968年には「ニュース速報」と「特集」の2部門に分かれました。これは、速報性が重要なニュースとは別に、時間をかけた長期取材も受賞の機会を得られるようにしたものです。
受賞対象は前年にアメリカ国内で発表された報道、文学、音楽です。報道写真部門については、アメリカ国内の新聞や速報メディアで発表されたものが対象。残念ながら、日本の新聞だけに発表された写真は受賞の対象とはなりません。ただし、配信されるなどして、米国の新聞等に掲載されていれば、米国人以外の写真家にも受賞のチャンスはあり、過去たくさんの外国人写真家もピュリツァー賞を受賞しています。
ニュース報道は世界中の事象を扱うため、米国のメディアにおける報道であっても、テーマはアメリカ国内にとどまりません。誰もが目にしたことがある決定的瞬間を収めた写真や、事件を象徴的に切り取った写真、新しい取材手法を開発した写真など、常にフォト・ジャーナリズムの先端にある写真が選ばれてきました。
2010年には、報道部門で初めてネットメディアが受賞して話題になりました。あまり知られていませんが、ピュリツァー賞は応募制です。報道写真部門はアメリカ国内の新聞やニュースメディアに掲載されたもの、各20点を上限として応募できます。2012年の応募締め切りは1月25日です。
最初の受賞写真
1942年、報道写真部門が設立されて最初の受賞作は、フォード自動車工場での労働争議を撮影したものでした。撮影したミルトン・ブルックスは「一発必中のミルトン」と呼ばれており、取材に出かけても絶好の1枚が撮れる瞬間を待ち、その1枚を撮影するとさっさと家に帰ってしまう、という伝説を残しています。
当時使われていたカメラ「スピード・グラフィック」は1枚撮影するたびにフィルム・ホルダーやフラッシュバルブを交換し、シャッターをセットし直すといった多くの手順が必要で、シャッターチャンスという言葉はまさに“一瞬の勝負”だったのです。
そうはいっても、当時の写真家もやはり何枚もの写真を撮影していました。当時の報道写真家において、シャッターチャンスを待つ、という点についてブルックスほど辛抱強い人はいなかったのでしょう。また、そのチャンスを見極める目を持っていたのです。
1941年は米国各地の工場でストライキが行われていました。労働者との交渉に応じないまま、フォード社が4月3日に1人の労働者を解雇したことをきっかけに、同社最大の工場であるリバー・ルージュ工場はストライキに突入し、ストに参加しない労働者との間で衝突が起きてしまいます。
ブルックスがシャッターチャンスを忍耐強く待っていると、1人の男が組合のピケ隊と口論をしているのに気づきました。他のカメラマンは口論を撮影した後、他の被写体を求めて移動してしまいましたが、ブルックスはこれがトラブルに発展するだろうと考えその場でじっと待っていたのです。
ピケ隊と言い争いをしていた男が強引に進もうとすると、ストに参加している労働者たちがこん棒を男に振り下ろしました。その瞬間を逃さず撮影したブルックスは、初のピュリツァー賞写真部門の受賞者となりました。
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