自民党政権は「政党政治」だったのか
(前回から読む)
戦後国家を長く支えたのは、間違いなく自民党だ。米ソ冷戦下で自由主義と民主主義を堅持し、世界有数の経済大国に育て上げた。明治国家での挫折を乗り越えて自らを統合主体たらしめ、戦後国家の意思決定システムに躍動感ある生命力を吹き込んだ。様々な批判はあろうが、この点は認めざるを得まい。
ただし、それが「政党政治」だったとは言い難い。1993年の細川護熙政権を除き、自民党の1党優位が続き半世紀以上も政権交代がなかったからだ。その内実は、党内の派閥同士による「疑似政権交代」だった。「政党政治」は、複数政党による政権交代が前提だ。
原敬内閣は、間違いなく「政党内閣」だった。ただし、山県閥との妥協と提携による政友会の1党優位は、政党同士の政権交代が前提でない。「政党政治」とは言い難い。そこに、原の功罪が込められている。
そもそも政権(首相)は誰が決めてきたのか。大衆の民意を反映した衆議院の多数派ではない。明治憲法に規定がない元老集団、とりわけ政党へ不信感を抱き続ける山県有朋だ。だが、冷徹ながら愚直な山県は、国家への使命感の何たるかを原に教育してきた。そして、「原ほどの力のある政治家は今は他に多く求められない」と評価した。原と政友会は、意思決定システムの統合主体にまで成長した。
とすれば、次の焦点は第2党だ。だが、全盛を誇る原内閣で憲政会は「苦節十年」と呼ばれる沈滞期にあった。原は、「味方には融ける」。能力に欠ける大臣に代わり国会答弁し、金をせびる党員にはメンツを立ててからコッソリ渡す。本人は驚くほど質素生活なのに、政友会を愛するが故に甘やかした。一方で原は、「敵に対して剛」だ。憲政史上で最高の権力で、山県閥と憲政会の徹底的な弱体化を図った。
何より重要だったのは、「第三者に対してはそれ程でない」ことだ。権力闘争の「第三者」たる大衆には関心が薄く、心からは信用しなかった。逆に言えば、それは憲政会のチャンスだ。
時に極端な要求や理想主義を掲げた憲政会は、元老集団から政権担当能力を認められなかった。だが、総裁の加藤高明は、「国家に尽す道は、野に在ると朝に在るとに依て異なる道理はない」と、野党の使命に胸を張った。やがて憲政会は、2大政党による「政党政治」をたぐり寄せていく。自民党にたしなんで欲しい野党の尽す道である。
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明治大学法学部ほか非常勤講師。1995年神戸大学法学部卒、東京都立大学大学院博士課程を経て博士号取得(政治学)、同政治学助教などを経て現在に至る。

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