「首相の権力〜この国はどう決断してきたのか」

「2大政党制」と原敬の功罪

明治憲法体制と政党内閣の時代(後編)

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2012年2月9日(木)

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自民党政権は「政党政治」だったのか

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 戦後国家を長く支えたのは、間違いなく自民党だ。米ソ冷戦下で自由主義と民主主義を堅持し、世界有数の経済大国に育て上げた。明治国家での挫折を乗り越えて自らを統合主体たらしめ、戦後国家の意思決定システムに躍動感ある生命力を吹き込んだ。様々な批判はあろうが、この点は認めざるを得まい。

 ただし、それが「政党政治」だったとは言い難い。1993年の細川護熙政権を除き、自民党の1党優位が続き半世紀以上も政権交代がなかったからだ。その内実は、党内の派閥同士による「疑似政権交代」だった。「政党政治」は、複数政党による政権交代が前提だ。

 原敬内閣は、間違いなく「政党内閣」だった。ただし、山県閥との妥協と提携による政友会の1党優位は、政党同士の政権交代が前提でない。「政党政治」とは言い難い。そこに、原の功罪が込められている。

 そもそも政権(首相)は誰が決めてきたのか。大衆の民意を反映した衆議院の多数派ではない。明治憲法に規定がない元老集団、とりわけ政党へ不信感を抱き続ける山県有朋だ。だが、冷徹ながら愚直な山県は、国家への使命感の何たるかを原に教育してきた。そして、「原ほどの力のある政治家は今は他に多く求められない」と評価した。原と政友会は、意思決定システムの統合主体にまで成長した。

 とすれば、次の焦点は第2党だ。だが、全盛を誇る原内閣で憲政会は「苦節十年」と呼ばれる沈滞期にあった。原は、「味方には融ける」。能力に欠ける大臣に代わり国会答弁し、金をせびる党員にはメンツを立ててからコッソリ渡す。本人は驚くほど質素生活なのに、政友会を愛するが故に甘やかした。一方で原は、「敵に対して剛」だ。憲政史上で最高の権力で、山県閥と憲政会の徹底的な弱体化を図った。

 何より重要だったのは、「第三者に対してはそれ程でない」ことだ。権力闘争の「第三者」たる大衆には関心が薄く、心からは信用しなかった。逆に言えば、それは憲政会のチャンスだ。

 時に極端な要求や理想主義を掲げた憲政会は、元老集団から政権担当能力を認められなかった。だが、総裁の加藤高明は、「国家に尽す道は、野に在ると朝に在るとに依て異なる道理はない」と、野党の使命に胸を張った。やがて憲政会は、2大政党による「政党政治」をたぐり寄せていく。自民党にたしなんで欲しい野党の尽す道である。

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著者プロフィール

村井 哲也(むらい・てつや)

村井 哲也 明治大学法学部ほか非常勤講師。1995年神戸大学法学部卒、東京都立大学大学院博士課程を経て博士号取得(政治学)、同政治学助教などを経て現在に至る。
専攻は近現代の日本政治史と日本政治論。
著書に『戦後政治体制の起源 吉田茂の「官邸主導」』(藤原書店、2008年)がある。



このコラムについて

首相の権力〜この国はどう決断してきたのか

民主党政権は迷走を続け、日本政治には閉塞感が漂う。その根源は、日本政治が国家の基本的な意思決定すら果たせない現状にある。首相の資質を嘆いていても始まらない。伊藤博文に始まる日本の首相は激しい時代の変化に晒されながら指導力を発揮する意思決定システムをどう築こうとしてきたのか。彼らの格闘の歴史を紐解く中に、決められない政治から脱却する手がかりを探る。

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