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チェルノブイリの「石棺」と止まった観覧車

「不幸な人々を助けたい」という思いの中の傲慢さ

  • 菊池 由希子

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2012年4月25日(水)

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 1986年4月26日未明に起こったチェルノブイリ原発事故を、当時3歳にも満たなかった私は、当然のことながらニュースとして知ったわけではない。どこで聞いたのか誰から聞いたのかは覚えていない。でも、子どもの頃からとても気にかかっていたし、チェルノブイリのあるウクライナやロシアなどのソ連の国々に興味を抱くきっかけとなった。今の私のすべてを作ってくれたきっかけだったとも言える。

 チェルノブイリへの思いが、チャイコフスキーやフィギュア・スケートを好ませ、モスクワ留学へ向かわせ、挙げ句の果てにチェチェンにまで足を突っ込ませたのだ。そもそも私の子どもの頃の夢は、チェルノブイリ原発事故被災地で支援活動をすることしかなかった。

親の反対を押し切ってチェルノブイリへ

 2000年、私は17歳になった。生まれ育った青森県弘前市は社会も狭く、高校は受験勉強中心だった。何をするにもしがらみが邪魔する片田舎から、私は出たくて出たくて仕方がなかった。東京はおろか盛岡まででさえも2時間半かかる東北の最北端に暮らしながら、8000キロ離れたチェルノブイリを訪れようと、たった一人で企てていた。

石棺と呼ばれる事故のあったチェルノブイリ原子力発電所4号炉(2000年夏の様子。330メートル地点)

 インターネットは青森の高校生と世界の距離を確実に縮めた。東京にいれば、多くの非政府組織(NGO)があり、世界で何が起きているかが分かるようなイベントが盛りだくさんだが、青森はそんな都会とは違って閉鎖的だ。でも、私は親に内緒で、インターネットを使って、チェルノブイリへ行くスタディーツアーを見つけた。

 娘が突然、「チェルノブイリへ行く」なんて言いだしたら、普通の親は止めるだろう。もちろん私の親も必死で止めた。しかし、「反抗児」だった私は行くと言って聞かず、結局、親の許しを得ることができたのだった。

 成田空港の近くで、スタディーツアーの参加者が初めて顔を合わせた時、私は一瞬にして青森の家に帰りたくなった。なぜなら、私以外の人たちはみんな、標準語がペラペラだったからだ。

 津軽弁しか話せなかった私は、とにかく黙っていようと口を固く結んでいた。自己紹介する時は、国語の授業での朗読か、檀上でスピーチをしているつもりになって津軽弁を隠した。でも、この時の強い劣等感とショック療法のおかげで、翌日には標準語で会話を楽しむことができるようになった。

 当時、コンコルドが墜落したばかりだった。それでも、ロシア航空のアエロフロートに乗ることは、ロシアへ好感を持っていた私にとっては、別に怖いことではなかった。「ロシアの飛行機なんて大丈夫なの?」「落ちないの?」なんていう偏見は、私にはなかった。やっと念願がかなってロシアへ、チェルノブイリへ行ける。わくわくして仕方がなかった。

 モスクワは何車線もある広い道路や巨大な建物がたくさんあった。狭苦しい東京とは街の大胆さが違う。そして空も青く高い。

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