• BPnet
  • ビジネス
  • IT
  • テクノロジー
  • 医療
  • 建設・不動産
  • TRENDY
  • WOMAN
  • ショッピング
  • 転職
  • ナショジオ
  • 日経電子版

ペプシコを変えた“サリーを着た女”

目の前のことをやり抜く以外に出世などあり得ない

2013年6月28日(金)

  • TalknoteTalknote
  • チャットワークチャットワーク
  • Facebook messengerFacebook messenger
  • PocketPocket
  • YammerYammer

※ 灰色文字になっているものは会員限定機能となります

無料会員登録

close

米国で「成功した女性」と言われたとき、誰を想像するだろうか。ヒラリー・クリントン、コンドリーザ・ライスといった政治家から、最近では、マリッサ・メイヤーやシェリル・サンドバーグといった世界的なIT企業のトップまで、世界的に有名な女性は多い。だが、海を渡ってやってきた女性が、米国の企業でトップに就くのは米国といえどまだ珍しい。今回紹介するのは、そんな女性。インドからやってきたインドラ・ヌーイだ。
「等身大のコミュニケーション」で世界的企業を束ねるインドラ・ヌーイ(写真:ロイター/アフロ)

 ペプシコのCEO(最高経営責任者)であるインドラ・ヌーイが育ったのは、18歳でお見合い結婚をするよう期待されるような典型的な古いインドの家庭だった。  

 生まれたのは1955年、南インドのマドラス。厳しい両親で、ことに学校の勉強は一生懸命にするようにしつけられた。成績さえ良ければ何をやってもいいというのが親の口癖。そのためヌーイは勉強ばかりしていたが、幸い成績は良かったので、ガールズ・バンドでロックギターを弾いたり、クリケットの数少ない女性選手としてフィールドを駆け回ったりもした。

 しかし、ヌーイと姉がどんなに知的な女性になろうとも、最終的には妻になることが親の描いた将来図だったという。その意味では、彼女が育ったのはひと昔前の日本のような因習的な環境だったのだ。

 「親の結婚計画を先送りするには、勉強し続けるしかなかったのです」と、あるところでヌーイは語っている。その企みを遂行すべく、彼女は大学で物理と数学、化学を修めた後に、カルカッタのインド経営大学院に進学してMBAを取得。卒業後は、インドのジョンソン&ジョンソンや繊維会社で仕事をした。

 アメリカに渡ったのは1978年。23歳で、イェール大学の創設間もないビジネススクールへ進学した時だ。寮の受付のアルバイトをしながら生活費を稼ぐような毎日で、しかも時給が50セント高いというだけの理由で、午前零時からの夜勤を引き受けたという。

 それでも、教授が学生たちと惜しみなく知識を分かち合い、多くの議論をしたイェール大学院での環境は、ヌーイを大きく成長させた。「いつかアメリカで活躍したい」という、彼女が心の奥底に持っていた願いは、この環境で現実のものに変わっていくのだ。

 卒業後は、ボストン・コンサルティング・グループやモトローラ、欧州の機械メーカーABBで経験を積み、1994年にペプシコへ。企業戦略を中心に積んできたキャリアを活かして、同社でも大鉈を振るった。ことに、不健康なスナック菓子やソーダに頼っていた事業を、もっと健康的な食品を中心とした事業へと舵を取っていった。今から振り返れば、大いに先見の明のある戦略だと言えるが、当時は主要な収入源を軽視するような動きともとられた。「女性ならば、健康的な食品の方がいいと考えるはずでしょう?」と、ヌーイはこの時の自然な考えを明らかにしている。

コメント0

「女の出世ダイバーシティ」のバックナンバー

一覧

「ペプシコを変えた“サリーを着た女”」の著者

瀧口 範子

瀧口 範子(たきぐち・のりこ)

ジャーナリスト

シリコンバレー在住。テクノロジー、ビジネス、社会、文化、時事問題、建築、デザインなどを幅広く日本のメディアに寄稿。

※このプロフィールは、著者が日経ビジネスオンラインに記事を最後に執筆した時点のものです。

日経ビジネスオンラインのトップページへ

記事のレビュー・コメント投稿機能は会員の方のみご利用いただけます

レビューを投稿する

この記事は参考になりましたか?
この記事をお薦めしますか?
読者レビューを見る

コメントを書く

コメント入力

コメント(0件)

ビジネストレンド

ビジネストレンド一覧

閉じる

いいねして最新記事をチェック

日経ビジネスオンライン

広告をスキップ

名言~日経ビジネス語録

定年後の社会との断絶はシニアの心身の健康を急速に衰えさせる要因となっている。

檜山 敦 東京大学先端科学技術研究センター 講師