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一線を退いて返り咲く「2度目が最高に楽しい」

王室の名を持つデザイナー、ダイアン・フォン・ファステンバーグ

2013年8月30日(金)

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(写真:Newscom/アフロ)

 アメリカを代表するファッション・デザイナーであるダイアン・フォン・ファステンバーグの血には、地獄と天国が混じり合っている。地獄は、母が暮らしたアウシュヴィッツ強制収容所のこと、そして天国は、ドイツの王室出身者と結婚し、その後キャリアの華を咲かせていったことだ。

 フォン・ファステンバーグは、1946年にベルギーのブリュッセルで生まれた。両親はルーマニアとギリシャ系のユダヤ人。彼女が生まれたのは、20歳代初めに強制収容所に送られた母親が、アウシュヴィッツから奇跡的に生還して18カ月後のことだったという。

 この母の体験は、フォン・ファステンバーグに大きな影響を与えている。「恐怖はいつもついてまわる」と、彼女は母から言い聞かされて育った。つまり、何かに怯えたり、緊張したりするのは当たり前。だからこそ、そんな恐怖心と折り合いをつけて進まなければならない。フォン・ファステンバーグは、母から自信や自尊心を失わないことの大切さと、どんなことが起こってもポジティブな面に目を向けることを教え込まれたという。

 母親の奇跡的な生還後に生まれたフォン・ファステンバーグではあるが、その後は恵まれた環境で育ったようだ。父親は、電子関係の事業で成功を収め、フォン・ファステンバーグは12歳でいわゆるフィニッシング・スクールというお嬢様向けの全寮制学校に入るためにスイスに行っている。その後は、マドリッド大学へ進学し、途中でジュネーブ大学へ転校して経済学を専攻。ここで、ドイツとイタリア王室の末裔であるエゴン・フォン・ファステンバーグと恋に落ちて、1969年に結婚するのだ。

 フォン・ファステンバーグのファッション・デザイナーのキャリアがスタートしたのも、この時だった。「働く必要はなかった。けれども、エゴンの妻になると分かったその瞬間に、自分のキャリアを持たなければならないと思ったの。自分の手で金を稼がなければならない、と」。その時の気持ちを、フォン・ファステンバーグはそう語っている。そして、パリやイタリアのファッション・ハウスやメーカーでパターンや素材の基礎を学ぶのだ。

 フォン・ファステンバーグは、間もなくして家族と共にニューヨークへ移り住む。2人の子供がいたが、それでもファッション・デザイナーとしての自分の力を試すために、父から資金を借りてマンハッタンの7番街に店を出した。王族出身の夫との派手で華やかな生活ぶりも相まってメディアの注目も集める。だが、ファッション・デザイナーとして確固とした地位を築くのは、1972年に「ラップドレス」を考案したことがきっかけとなった。

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「一線を退いて返り咲く「2度目が最高に楽しい」」の著者

瀧口 範子

瀧口 範子(たきぐち・のりこ)

ジャーナリスト

シリコンバレー在住。テクノロジー、ビジネス、社会、文化、時事問題、建築、デザインなどを幅広く日本のメディアに寄稿。

※このプロフィールは、著者が日経ビジネスオンラインに記事を最後に執筆した時点のものです。

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