
福沢諭吉先生がミイラになって現わる――。
にわかに信じ難いこの話が取り沙汰されたのは、今から38年前だ。
ミイラが発見された場所は東京都品川区上大崎の常光寺(浄土宗)である。諭吉の死から数えて76年後、なぜ、諭吉が掘り起こされたのか。
これから紹介するエピソードは、考古学や解剖学などの分野の話ではない。今後、多くの団塊世代が抱えるであろう「お墓にまつわる悩ましい問題」を先取りした1つの事例として見ていきたい。
土葬された諭吉
福沢諭吉は1901年(明治34年)2月3日に脳出血が原因で死去したと伝えられている。享年68歳だった。葬儀は、福沢家の菩提寺である麻布十番の善福寺(浄土真宗本願寺派)で執り行われた。
通常、「葬儀」と「埋葬」が切り離されて、別々の寺で行われることはない。
しかし、諭吉は生前、散歩の際、常光寺(※)周辺の眺望が良かったことから、「死んだらここに」と、常光寺の墓地を手に入れていた。常光寺は善福寺からは約2.5km離れている。
最近では、寺檀関係が煩わしいと考える人は、「好きな場所」に「好きな埋葬法」を求めるケースが増えているが、地縁・血縁がしっかりと根付いていた明治期に、気ままに墓を求めたのはかなり珍しいケースではなかっただろうか。往年の諭吉がなかなかの自由人であったことが読み取れる。
※ 本当は常光寺の隣にあった、無住の本願寺(浄土宗)の墓地に埋葬されたがその後、近辺の寺院再編によって墓地が常光寺に編入された
宗旨の異なる寺に埋葬
ところが、自分の好きな場所に墓を求めたことが諭吉の死後、思いもよらない混乱を引き起こす。
先に述べたように福沢家の宗旨は浄土真宗であった。ところが埋葬された寺は浄土宗だ。両宗は同じ浄土系とはいえ、経や教義、仏事の作法などが異なる。戒名の付け方も異なる。
他宗の寺同士が仏事で連携し合うということも、よほどの例外を除いてはあり得ない。浄土真宗の僧侶が、浄土宗の寺の敷地で経を上げるという、ちぐはぐなことにもなりかねない。
また、親族にとってみれば墓参りの場所が複数にまたがるという面倒が生じる。将来的には、諭吉の子供や孫たちの、埋葬場所はどうするか、など、ややこしい話が次から次へと出てくる可能性がある。
寺院だけではなく、敷地の中にお墓がある場合も、その後、生活の本拠地が変わった場合に大変です。私の高祖父母(曽祖父母の親)の代まで、代々のお墓は静岡県の一族の住む場所の敷地内にありました。それが曽祖父が一族共々東京に引っ越して事業を起こし、その事業に失敗して先祖代々の土地が一族の墓ごと他人の手に渡りました。それ以来、約30年程前まで、首都圏に在住する両親と私とで、静岡の当時の土地の持ち主に事前の断りを入れて敷地に入らせてもらい、墓参りを行なってました。曽祖父の子孫20人程の了解を一人一人得た上で、30年前に両親が一族数十人分の墓を東京の霊園に改装しました。(2015/02/10)