私たちは誰かとトラブルがあると、つい「あいつは常識がないな」「普通だったら、ああいうことはやらないな」と思ってしまうことがあります。
私もついそう思ってしまうことがありますが、相手の言動に対していちいちそう感じていると、結局は自分が嫌な気持ちになってしまうだけですし、相手にもこちらがそう思っていることは伝わってしまうものです。
人には誰でも「心のクセ」がある
相手に対して「非常識だ」とか「普通はやらないのに」と思ってしまった場合は、「これはあの人の“心のクセ”なんだな」と思ってしまった方が楽なものです。
私たちが誰かに愚痴を言う時には、「こういうことがあったの。普通だったら先に言うべきだよね」とか、「常識じゃ考えられないでしょ」などと言ったりします。しかしそう言っている自分も、誰かからそう思われていたりするものです。そして誰かから「非常識」だと思われていた場合、自分にもそれについての理由や言い分があるものです。
このように「自分の常識は他人の非常識」「他人の常識は自分の非常識」に過ぎないことも多いものです。
私たちは「常識」や「普通」にこだわって生きています。
ちなみに常識とは「一般の社会人が共通にもつ、またもつべき普通の知識・意見や判断力」(『大辞泉』)、普通とは「特に変わっていないこと。ごくありふれたものであること。それがあたりまえであること」(『大辞泉』)です。
私たちは、これらを守って生きることが「大人になること」であるとも思っています。もちろん、こう考えることは間違いではないでしょう。
しかし私たち一人ひとりの経験は、それぞれで違うものです。今まで育った環境、出会った人、仕事の内容、読んだ本、見た風景、そんないろいろなものによって、その人の「常識」や「普通」は出来上がっているのですから、人と人が出会えばどうしても、常識も普通も相容れなくなりがちです。
それは、人間同士が完璧には分かり合えないのと同じことですから、結局常識や普通は通じ合わないのだと、割り切った方がいいのです。
このテーマになると、「日本語の“常識”は英語の“common sense”とは違う(だから日本は遅れている)」などと言う人がいますが、どんな国でも、common senseについて全員が一致することなどありません(ちなみに常識とは、common senseの訳語として明治時代から使われている言葉です)。
また「“常識”より“良識”を」と言う人もいますが、「良識」もすべての人の見解が一致しているわけではなく、同じように「正義」も一人ひとりで解釈が違うのは当然のことです。
自分と「常識」や「普通」や「良識」や「正義」についての解釈が違う相手に対して、私たちは否定したり、非難したり、直そうとしたりしてしまいがちです。そうしてしまう理由は、結局自分の中の常識や普通に自信がないためなのです。
私たちは自分と違う価値観を持った相手を否定することで、自分の常識を補完したいと思ってしまうのです。
自分が困る他人の「心のクセ」にだけ、手を打てばいい
相手の言動に対して「非常識」とか「普通ではない」と思った場合に、絶対に許せないのであれば、指摘してもいいのですが、しかしそこまでではない場合、相手がそういう言動をしてしまうのは、「心のクセ」とか「趣味」なのだと置き換えて考えられるようであれば、大騒ぎすることもないでしょう。
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