「人は女に生まれるのではない。女になるのだ」
フランスの女性作家シモーヌ・ド・ボーヴォワールが著書の『第二の性』で書いた有名な言葉です。
確かに「女性になるために」、そして「女性でいるために」、必要な条件はとても多いものです。
ファッション、下着、メイク、立ち居振る舞い、話し方、気遣いとか気配り、生活態度(部屋がきれいだとか、料理がうまいとか)――など数多くの条件を満たすことで、「女」になれて、「女」でいられるのです。
「女」という条件を巡って、それに振り回される「賞味期限女子」で、それをなんとか面白がろうとするのが「女装女子」なのです。
「女」は捨てようとしても、捨てられない
「賞味期限女子」は「いつまでも女でいたい」し、「女として輝いていたい」から、「女として終わりたくない」と、「女の賞味期限」を恐れ、それに振り回されます。
一方「女装女子」は、女でありながら“女装”することで、女らしさを面白がろうとしているのです。
「賞味期限女子」たちの口癖は「女を捨てたらおしまいだよね」「いつまでも女として輝きたい」です。
「いい男がいない」「出会いがない」「面白いことない?」と同様に、「もうそれを言うのはやめようよ」と私は思ってしまうのですが。
例えば女性同士で「私がウエストがゴムのスカートをはくようになったら指摘して」などと言い合うのも、よくあることです。ゴムのスカートをはくようになったら、自分の体形やファッションに気を使わないオバサンになって「女を降りてしまう」と思っているからです。
そして、部屋を片づけられない女性がいると、「女を捨ててるなあ」と評価してしまうのです。
「女を捨てる」「女を降りる」「女を諦める」というのは女性同士の相互監視の結果でもあるのです。
しかし、女は捨てようとして捨てられるものではありません(性同一性障害などでない限り)。
女を捨てたら男になる、というわけでもありません。
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