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会社を捨て、プロになった男の快挙

日本人初の夢舞台に参加するエンジニア

  • 宮田 秀明

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2007年6月22日(金)

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 6月7日にスペインのバレンシアから電子メールが届いた。

 「昨日、ルイヴィトンカップのファイナルレースがあり、私の所属する“Emirates Team New Zealand”がイタリアのプラダを破り、優勝することができました。1993年ニッポンチャレンジのサンディエゴで、私のキャリアがスタートしてから14年の長い道のりでしたが、念願の目標の1つをクリアすることができました」

 学科の卒業生で、かつて日本が世界最高峰のヨットレース「アメリカズカップ」に挑んだ時に、技術開発で私の片腕だった鹿取正信君からだった。彼は今、エミレーツ・チームニュージーランド(ETNZ)でレース艇の性能分析を担当している。

 ETNZは、バレンシアで開催されていたアメリカズカップの予選(ルイヴィトンカップ)の決勝で、イタリアのルナロッサチャレンジと戦っていた。ETNZは6月6日に行われた9回戦制の第5レースに勝ち、5連勝と圧倒的な勝利で本戦出場を決めた。23日から、防衛艇であるスイスのアリンギチームと対戦する。

 鹿取君は、150年を超える歴史を持つアメリカズカップの本戦に日本人として初めて参加することになったのである。

 「今の自分を考えると、1995年のニッポンチャレンジに絡んでいなくて、“あの悔しい思い”がなければ、今の自分がなかったと思うし、2000年のチャレンジでも、ヤマハを辞めることはなかった気もします。それを考えると、いろいろな意味で“きっかけ”を先生からもらっている気がしております。感謝の気持ちを込めて、報告させていただきました」

ふがいない敗北で残った、えも言われぬ虚脱感

 1993年、私にアメリカズカップ艇を開発する仕事が突然舞い降りてきた時、メインの製造担当会社だったヤマハ発動機と、日本チーム「ニッポンチャレンジ」の関係は決裂状態だった。短期間でチーム編成をしなければならなくなった私は、ヤマハ発動機の経営者にお願いした。

 「もう1度、助けてほしい。私も最大限の努力をしますから」

 ヤマハ発動機の協力が復活し、同社の担当者の中で一番若い社員が鹿取君だった。1994年の春に開設した米国サンディエゴのベースキャンプに常駐派遣された技術スタッフが彼である。

 1995年の第29回アメリカズカップのレースは、彼にとっても私にとっても初めての挑戦だった。何とか準決勝まで進んだものの、惨めな結果に終わった。準決勝では1勝もできなかったどころか、すべての試合で大差をつけられて負けた。ふがいない結果だったからだろう。全試合放送しますと言っていたNHKの衛星放送は、早々に番組放映をやめてしまった。1995年3月、すべては終わった。

 虚脱状態とは、こういう時のことを言うのだろう。技術チームはそれぞれの職場に戻り、会話することも顔を合わせることも少なくなった。この惨めな、えも言われぬ敗北の虚脱感は経験しないとなかなか分かってもらえないかもしれない。

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