サッカーのワールドカップ、メジャーリーグ、オリンピックに世界陸上。スポーツは莫大な金額が動くビジネスになっている。背景には、知名度とイメージ向上を求める企業の広告、そしてコンテンツと収益を求めるマスメディアがある。ウェブと広告の未来を探るために、その歴史はぜひ知っておきたい。ワールドカップサッカーイベントの仕掛け人であり、日本におけるスポーツマーケティングの草分けであるJSMのジャック坂崎氏と、糸井重里氏が語る、スポーツとビジネスの関係の変化と成長。全3回に分けてお届けする。

糸井 重里
コピーライター。東京糸井事務所代表。「ほぼ日刊イトイ新聞」主宰
ジャック 坂崎
ジャパン・スポーツ・マーケティング株式会社代表取締役70年代、ワールドカップ放映権料はたった5000ドル!?
糸井 スポーツの世界に「我々がやっていることはコンテンツになるぞ」という考え方って、いつごろから出てきたんでしょうね。
坂崎 私が日本に来た1975年ごろは、そういう概念はなかったですね。ちょうどスポーツがプロ化する時代でしたが、それでもゴルフ、テニス、プロレス、プロボクシング、大相撲くらいしかなかった。
糸井 職業としてスポーツをやる人はある程度はいたけれども、今みたいにいろんなスポーツの選手たちが注目を浴びるというふうになっていなかったということですね。
坂崎 私がスポーツマーケティングのビジネスを展開しようと、イギリスにいたパトリック・ナリーという若者といっしょになって最初に手がけた大きなプロジェクトがワールドカップサッカーです。1978年、いまから30年前ですね。
糸井 そのときまで、ワールドカップサッカーというのは今みたいな熱狂の中にあるのではなくて、ただの国際的なサッカー試合だったということですか。
坂崎 当時の状況をいうと、まず日本では、プロのサッカーリーグがなかったですね。ワールドカップを知る人も日本国内にはほとんどいなかったんじゃないですか。当時は、ワールドカップの1時間のムービーをNHKが、5000ドル程度の放映権料を払ってイベントの数ヵ月後に放映していた。これが30数年前のワールドカップサッカーの日本における位置づけですね。
「Sports is new media」
糸井 1978年というと、イメージとしてはなにがあっただろう。僕は80年をいつもひとつの基準として考えているんですけど、80年を自分に引きつけていうと、沢田研二の「TOKIO」(糸井氏が作詞)という歌があるんです。70年は東大安田講堂。全共闘の時代ですね。70年と80年の間があまりうまく区切れていないんですけど、78年はもう80年に近い70年代ということですね。
坂崎 私が独立してスポーツのビジネスに入ったのが、1977年。78年にヨーロッパの会社とのジョイントベンチャーで、はじめて日本の企業にスポーツを通じたマーケティングを試みた。なぜマーケティングなのかというと、当時、「Sports is new media」だと、スポーツはニューメディアだというスローガンをうたってお客さんに呼びかけていたからなんです。
糸井 それは坂崎さんたちが考えた言い方ですか。
坂崎 そうです。新聞から始まって、雑誌、ラジオ、テレビ、と大きなメディアが4つありますけど、スポーツというのはそこに加わる新しいメディアだよということを打ち出したんです。ワールドカップサッカーの直前に、技術的にテレビがワールドワイドに放送できる時代になったことが非常に大きかった。
国際中継は東京オリンピックの時にもありましたけれども、ふつうのイベントがワールドワイドに放送されたのはワールドカップが初めてだと思います。ひとつのイベントが百数十カ国に放送されると、ものすごいメディアとなって価値を生み出す。
企業を呼ぶ、看板を出す、お客さんを呼ぶということをパッケージにしてはじめて売り出したのは、ワールドカップサッカーの1982年スペイン大会でした。
糸井 その前の大会ではまったくそのようなことは行われていなかった?
坂崎 一応放送はしていたんですが、生で世界に放送というのはなかった。
糸井 ワールドカップサッカーにしても、その後、ロス五輪にしても、赤字について散々言われてましたよね。アマチュアスポーツというのは、アマチュアがスポーツをするに過ぎないのだから、資金をどう集めるかというのが大問題だった。それがいつの間にか、「うちに来てください」と引っ張りだこになるくらいの大きなコンテンツになった。その転換点が坂崎さんたちがやったスペインのワールドカップサッカーだったということですか。
坂崎 そうですね。われわれが初めてワールドワイドにマーケティングをやった。その直後にロス五輪があって、ユベロス(ピーター・ユベロス大会委員長)さんが民間の力だけでオリンピックを開催するということで、初めてスポンサーをつけたんです。
糸井 あれも、当時は画期的なこととして騒がれましたよね。
坂崎 その当時のスポンサー料金が一番安いので200万ドル。高いので500万ドル。いまはオリンピックのトップスポンサーが10社ほどあるんですけど、ここは4年間で1億ドルほど出さないとスポンサーになれないんです。
糸井 約50倍。
ネットによるグローバリゼーションの先駆け
坂崎 いまは当たり前ですが、われわれが売り出したワールドカップサッカーのスペイン大会の時には、1業種1社に権利を与えるというのは画期的な出来事だったんです。
なぜそんなことをするのかというと、スポンサーにより大きく価値を与えることで、料金を高くしようと。ふつうなら100ドルのところを、1業種1社で価値が高まるから、200ドル、300ドル払ってもらう。
1業種1社、当時の値段が1社2000万スイスフランでした。当時のお金で30億円。日本ではみんなひっくり返りました。「ジャックさん、それはひとつゼロが違っているんじゃないの」と言われて、営業活動はうまくいかなかったんですね。
そこで、スペイン大会ですからヨーロッパオフィスの日本企業を訪ねまして、キヤノン、日本ビクター、富士フイルム、セイコーの4社がスポンサーになったんです。スポーツという新しいメディアの価値を理解してもらえたということですね。
糸井 どうして理解してもらえたんでしょう。
坂崎 その当時、ヨーロッパは国営放送ばかりでコマーシャルテレビがなかった。ヨーロッパには三十いくつの国がありますが、そこで何かを売り出すには、各国全部に予算を割り当てる。新聞、雑誌、テレビ、すべて言葉が違い、文化が違う。スポーツを通じて、同じ看板、同じメッセージを世界中に流すということが大きなメリットになると企業は受け止めたんですね。
糸井 インターネット以後のグローバリゼーションみたいなものを、スポーツは先にやっていたわけか。
坂崎 ただ、我々はテレビを使ったマーケティングだったので、一度にマーケティングをする。インターネットは今、個別にできますよね。そういう違いはあると思います。
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