三浦和義氏が、ロサンジェルス市警の留置場で自殺したという一報を聞いたとき、さまざまな映像が頭の中をフラッシュバックしました。
記憶の中で、最初に三浦和義氏の映像を見たのは、ぼくがまだ中学生の頃だったと思います。テレビの凶悪犯罪を特集するスペシャル番組の中で放送された、襲撃された妻を乗せたヘリコプターに向かって発炎筒を振って合図する氏の姿でした。
いまさら説明するまでもないことかもしれませんが、当初の三浦氏は危険な銃社会アメリカで不幸にも残酷な事件に遭遇してしまった被害者としてメディアに登場していました。
しかし数年後に週刊文春で「疑惑の銃弾」という特集が組まれた後、世の中を欺く犯罪者としてメディアに追いかけられるようになりました。その後のマスコミの報道は、「容疑者」というよりも、完全に三浦氏が「犯人」であることが確定しているかのごとく扱われた記事がほとんどでした。
報道のトーンがガラっと変わる頃には、ぼくは高校生になっていたと思いますが、「これはおかしいんじゃないか」という疑問を感じましたが、当時はそんな声がメディアから報じられることは殆どなかったように思います。後年、三浦氏が獄中からの民事裁判で次々にメディア各社に対して勝利を収めるにいたったわけですが、三浦氏の自殺で真相は結局わからないままに終わってしまった気がします。
今回は、この三浦和義氏が残したマスメディアの過熱報道と、そこから学べる広告的教訓について考えてみたいと思います。
メディアの過熱報道の正体は何か
過熱報道において、それはすべてマスメディアが悪い、と決めつけてしまうのは実に簡単です。しかし、「ホントにそうかな?」という疑問は禁じえません。実は、メディアの受け手である生活者ひとりひとりの中に、徹底的に叩ける悪役を欲している心があるように思います。
「あいつは落ちた偶像だ」「調子に乗りすぎたんだよ」「ざまあみろ」。誰はばかることなく批判できる対象を得ることは、退屈な日常の中にあって、ある種のカタルシスを与えてくれます。そうしたカタルシスをもたらしてくれるニュースの掲載された雑誌や新聞を人々は買い求め、テレビ番組にチャンネルをあわせてくれる。
マスメディアが読者をある方向に引っ張るのではなく、むしろ、普通の生活者がメディアにそうした報道をさせている、と見ることもできると思うのです。
最近の例で言うと、女性キャスターだった山本モナさんの不倫報道です。あの時の五反田のラブホテル前からの執拗なレポートなどは、「またこの娘は……」「飲み屋がなかったからラブホテルって、信じると思う?」「二岡ってたしか今、二軍だよね?」などなど、叩きどころが満載だったために、メディアは連日、そうした「叩きどころ」を詳しく報じていました。そして、「他に重要なニュースがあるだろ」というメディアへの批判の声を含め、人々がこのネタに熱く反応する様は、ブログやSNSなどの、普通の生活者が発信する記事にも反映されていました。
みんなが何か言いたくなる要素にあふれた事件こそが、そのとき、もっとも重要なニュースということになっているように思えるのです。
現在の世界同時株安にしても、複雑な金融商品であるCDSの仕組みがどんなものであるかよりも、わが世の春を謳歌していた外資系金融マンの没落ぶりや、資産の目減りで不安を感じる年金生活者の家計切り詰め策のほうが、ニュースバリューは高い、とメディアの送り手サイドは感じているように思えます。
それは、送り手がつけている優先順位である以上に、そうしたニュースを待ち望んでいる普通の生活者の存在がそこにあると思います。
残酷なのはメディアであると同時に、メディアを動かしている生活者の欲望と言えないでしょうか?
みんなが言いたいことを、言わせてあげる
あっ「そんなことは分かっている、それでお前は何がいいたいんだ」、とおっしゃりたいあなたの欲望のオーラが、今私のパソコンに伝わってきたような気がします。
この話を私の仕事に絡めて、広告を発信する側にとっての学びや教訓に発展させるとするなら、おそらくそれは、「みんながいいたいことを、言わせてあげる」ということではないかと思います。
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