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日経アーキテクチュアで今年3月、一般の200人を対象に「名前を知っている建築家」について尋ねたところ、1位が黒川紀章氏(36人)で、2位が安藤忠雄氏(25人)、3位がアントニオ・ガウディ(11人)だった。今回紹介する寒河江(さがえ)市庁舎は、知名度第1位の黒川紀章氏が若き日に設計した建物だ。
一般への知名度では群を抜く黒川氏だが、さてどれだけの人が彼の設計した建物を知っているかという話になると、かなりあやしい気がする。2位の安藤忠雄氏であれば、「ああ、表参道ヒルズの人ね」とか、「コンクリートの人でしょう」とか、何かしら建物に関するイメージがわくはず。3位のガウディだって、その名を聞いたら「スペインのグネグネした建物」をセットで思い浮かべるだろう。
しかし、「黒川紀章」と聞いて頭に浮かぶ映像は、2007年の東京都知事選で「銀座の恋の物語」を熱唱していた姿や、妻で女優の若尾文子さんとの熱々ツーショットではなかろうか。ご存じの通り、黒川氏は2007年の都知事選と参議院選に出馬して(いずれも結果は落選)、お茶の間に強烈なインパクトを残し、同10月12日に急逝した。
選挙での不可思議な振る舞いは、彼なりの計算だった?
建築に関心のない多くの人にとって、黒川氏は「風変わりな建築家」「奇人」として記憶に刻まれるのだろう。しかし、黒川氏に何度か取材をした時の印象から推察するに、選挙での不可思議な振る舞いは、彼なりの計算だったように思われる。日経アーキテクチュアの取材に応じる黒川氏はいつも礼儀正しく、聞かれた質問には的確に答え、インタビュアーへの心配りもあった。風変わりなところもないわけではなかったが、あれほど突飛な人ではなかった。おそらく、何の後ろ盾もない選挙戦で、短いニュース映像を最大限に活用する方法を考えた結果、ああした言動を取るに至ったのではないか。
では「建築家としての黒川紀章」はどんな人だったのか。黒川氏は1934年名古屋生まれ。京都大学工学部建築学科を卒業後、東京大学大学院に移り、丹下健三氏に学んだ。在学中から論客としてその名をとどろかせ、1962年に事務所を設立。前回紹介した菊竹清訓氏や前々回の大高正人氏とともに1960〜70年代のメタボリズム運動をリードした。
黒川氏の代表作をひとつだけ挙げるとしたら、東京・新橋に1972年に完成した「中銀カプセルタワービル」(イラストの右上の建物)だろう。交換可能なユニット式の住戸をエレベーターシャフトの回りに塔状に取り付けた分譲マンションである。
トウモロコシのようなその外観は“メタボリズムのアイコン”として世界の建築界に知れ渡った。新橋駅から徒歩5分ほどの、首都高速の高架脇に現存する。
完成後にユニット住戸が交換されたことはなく、今見ると老朽化が進んでかなり痛々しいが、それでもカメラを手に写真を撮りまくる外国人(おそらく建築関係者)の姿をしばしば見かける。海外での評価は薄れていないのだろう。
さて、本題の寒河江市庁舎に戻ろう。この建物は中銀カプセルタワービルの5年前、黒川氏が33歳の時に完成した。工事期間を考えると、設計がスタートしたのは20代の終わり頃ということになる。
20代で市役所の設計を依頼されるなんて、今では考えられないことだ。当時の社会がおおらかだったこともあるだろうが、黒川氏が若い頃からそれだけ注目され、期待されていた、ということでもある。
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