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30年前に仕込まれた「GM危機」の芽

日米パワーの逆転を招いた輸出規制

  • 池原 照雄

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2009年4月8日(水)

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 米ゼネラル・モーターズ(GM)とクライスラーの再建問題は、破たん処理も現実味を帯びる展開となってきた。かつて世界のビッグスリーと呼ばれた米自動車大手3社がここに至る起点として、約30年前のある出来事が思い起こされる。日米政府の合意による「日本製乗用車の対米輸出自主規制」だ。

 この「管理貿易」は、両国政府当局者や業界関係者の思惑から大きく外れた展開となり、日米の自動車産業の力関係を逆転させる契機となった。

 1980年、日米間の経済問題として自動車が最大のテーマとなっていた。70年代の2度の石油ショックを経て、米自動車市場では燃費性能に優れる日本製の小型乗用車が一気に販売を伸ばしていたのだ。

 日本車の輸出は、対抗車種を持たない米メーカーを苦境に導き、「集中豪雨的」とも「失業の輸出」とも表現された。80年には全米自動車労組(UAW)とフォード・モーターが当時の通商法201条に基づき、米国際貿易委員会(ITC)に、日本車の輸出による米自動車産業の被害認定を提訴している。

臨時異例の措置が、結局13年続く

 同年にITCはシロ裁定を下し、提訴を却下したものの、議会では輸入制限法案の動きが出るなど、この通商摩擦は後戻りできない情勢となった。

 翌81年5月にロナルド・レーガン政権と鈴木善幸内閣で合意されたのが乗用車の対米輸出自主規制だった。日本側による一方的な「臨時異例の措置」として、81年度から3年間に限り実施することになった。

 輸出の上限は、過去2年の実績を基に年168万台と定められ、通産省(現経済産業省)は乗用車各社に台数を割り当てた。輸出を頭打ちとすることで、小型車開発など米メーカーの事業再構築への時間を与えるのが根本的な狙いだった。

 しかし、規制措置は3年では終わらず、通産省は輸出の急増による混乱回避のため、今度は「経過措置」として84年度での実施を決めた。その代わり、米政府との交渉で上限は185万台に増やされた。85年度からは上限枠を230万台に拡大、結局、自主規制は93年度まで13年間も続くことになる。

 長きに及んだ自由競争の「凍結」は、想定外の事態を引き起こす。人気の日本車は、人為的な需給のタイト化により、多くの車種にプレミアムがついた。台数は伸ばせないものの、収益では文字通り「ドル箱」の市場となったのだ。

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