日本の航空機エンジン産業は技術的には高く評価されても、国産エンジンを開発し、世界の航空会社に売り込むことができていない。米ゼネラル・エレクトリック(GE)や英ロールス・ロイスなどの「下請け企業」と揶揄されてきた。
最近は戦略的な提携先として役割は大きくなっているが、それだけでは世界で8兆円とされる航空機エンジンのシェアを現在の5%程度から大きく引き上げることは難しい。
日本が航空機エンジンを独自開発することは戦後を代表する経済人である土光敏夫氏の夢だった。
戦後間もなく石川島重工業(現IHI)社長として、リスクの大きいエンジン事業に乗り出す決断を下した。激戦の航空機市場において、日本が飛躍するには文字通り「エンジン」が必要である。
まずは国内で8割近いシェアを持つIHIのエンジン事業において、成長の礎を築いてきた伊藤源嗣相談役(前社長)と、土光時代をよく知る高橋貞雄・元副社長に聞いた。
最初に登場する伊藤氏は、日本のIHI、川崎重工業、三菱重工業のエンジン大手3社が民間旅客機向け事業で収益の柱とする欧州エアバス向け「V2500」の技術的なとりまとめで活躍した。
―― 伊藤さんは1959年に石川島重工業に入社されています。土光さんが航空機エンジン産業に本格進出するために東京・田無工場を開設してから2年後ですね。
伊藤 私は大学生の時代から、戦闘機向けの超音速エンジンをやりたいと思っていました。当時の日本は軽工業から重工業に移っていく時代であり、大学の同級生の間では造船やボイラーなどが人気でした。
ただ、私はどうせやるなら、最も難しいものをやりたいと思っていました。だから、航空機エンジンの技術者になりたかった。
実は私の父親が土光さんの知り合いであり、コネで入社した。と言っても、「航空機エンジンの設計をやらせてくれるなら、石川島に行きます」というのが条件です。
―― 当時の田無工場はどのような状況だったのでしょうか。
戦闘機向けジェットエンジンの開発の先駆者
伊藤 土光さんがそれこそ様々な人材を集めていました。最初に田無工場長だった永野治さんは戦前の海軍時代の技術将校として日本の戦闘機向けジェットエンジンの開発の先駆者です。新人の私が近づきがたいような怖い雰囲気の人でした。
当時はまず、戦闘機向けのエンジン国産から始まりました。私はまだペーペーだったので、重要な仕事が任されたわけではありません。私にとって最初に自らが責任を担って、取り組んだのが防衛庁(現防衛省)の短距離離着陸実験機「飛鳥」向けエンジン「FJR710」です。
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