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「感動」こそが人の原動力

息子は母のライバル?

  • 宮田 秀明

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2011年12月16日(金)

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 これが今年最後の原稿になる。被災地の方々も楽しい年末年始を迎えてほしい。

 2000年にアメリカズカップの仕事が終ってしばらくして、私には自由な時間がたくさん返ってきた。仕事は相変わらず忙しかった。システム創成学科がスタートした。たくさんの学生が私の研究室のメンバーになりたくて研究室は大にぎわいだった。それでも、ニッポンチャレンジのテクニカルディレクターを兼務して世界と戦った時に比べれば、時間の余裕がたくさんあるように思えた。

 2000年の8月、定年になったら始めようと思っていた絵を描くことを始めた。もっとも、油絵は時間がかかるので、水彩画を選んだ。水彩画なら、準備も後片付けも簡単だから、仕事の終わった後の30分だけでも描き進めることができる。

 猛烈な人生から少し緩やかな人生にギアチェンジしようとしたのだ。

母の影響で絵に目覚める

 ほとんど生まれた時から絵は好きだった。幼稚園に行く前から、1人で絵を描いていた。だから「手のかからないもの静かな子」と言われていたようだ。

 小学校に入学してからは、春秋2回、全校写生大会があった。丸一日、絵を描く。翌日には廊下にそのクラス全員の水彩画が貼られ、回ってくる美術の先生たちが金賞、銀賞、銅賞を決めていく。賞に入らないことはほとんどなかった。

 4年生の時、担任の先生がクラス40人全員に将来なりたい職業を聞いた。私は、かなりためらいつつ答えた。

 「画家になりたいです」

 小学校5~6年生になって、この考えは大きく変わる。その頃は無邪気だった。

 そんな私の美術好きは100%母の影響だと思う。小学校の時の習いごとは習字と絵だった。習字はやむを得なかった。道を隔てた隣家のご主人が、日曜日は習字教室を開いていた。習字の先生の娘は私と同級生だった。家族ぐるみの付きあいをしていたので、毎週日曜日の習字教室に通うのは当然のことだった。結局、小学校6年生まで6年間続けた。

 さらに私は絵画教室にも通わされた。先生は、私の小学校の同級生I君のお父さんだった。松山城のふもとにあった私の家から自転車に乗って、道後近くの教室に向かった。

 本当はスポーツの方が好きだった。実際、三角ベースをしたり、松山城の標高130メートルの山の中や愛媛大学の構内で様々な遊びをしたりして、楽しんだ。夏休みは、父たちが私たちを、石鎚山などへ山登りに連れられて行くことも多かった。

 そんな合間に母は私に言った。
 「夏休みの宿題に絵はないの?」

 もちろんあるので、母と2人で自転車に乗ってスケッチに出かけた。母は極端に乗り物に弱い。車に乗っても片道3キロが限界だったから、40歳以降ほとんど旅行をしていない。生まれ故郷の神戸に行ったのが最後だった。だから、母の思い出でいちばん楽しかったのは2人で行った写生ハイキングかもしれない。

 母は旅行をしない代わりに趣味は豊かだった。約60年間短歌のグループ「アララギ」の同人だった。たった1首だが昭和万葉集に収録されている。

 絵は静物画が中心で、亡くなる半年前にも油絵を描いて県の展覧会に出品していた。60歳ぐらいの頃だろうか、松山市長賞を受賞したこともある。

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