うんざりするほどの疲労と不毛の果てに日本銀行総裁には白川方明氏が就任した。
世界の金融機関が未曾有のサブプライムローン(低所得者向け住宅ローン)に立ち向かっている今、かつて日本の不良債権処理を当時の三重野康総裁の肝いりで設立された信用機構局で過ごした不良債権処理のスペシャリストは時宜を得た人選と言えなくもない。
しかし、ここで話をするのは白川氏のことではなく、総裁の大本命と目されながらも玉座に座ることのなかった大蔵官僚、財務官僚ではなく大蔵官僚という呼称が最もふさわしい、武藤敏郎氏のことである。
金融と財政の分離を唱える民主党の意向を尊重し行われた衆参両院での議院運営委員会での所信表明さえ行った武藤氏。感情的な世論に抗するかのように総裁にこだわった武藤氏の挫折こそ“大蔵こそ国家なり”とされてきた大蔵支配の決定的な終焉を意味した。
屈辱的な所信表明にさえ表情を変えることのなかった武藤氏がこの間、ただ1度だけ怒りをあらわにした。それは福田康夫首相が民主党に否定された武藤氏に代わる総裁候補として同じく大蔵OBの田波耕治氏の名前を挙げた時であった。
なぜ武藤氏は、
「一体なにを考えているんですかね」と声を荒げたのか。
自分に代わって入省年次が下の田波氏が候補者になったからだと見る向きもいる。が、それは違う。確かに田波氏も事務次官経験者ではある。しかし、それは田波氏の同期で自他共に認める事務次官候補、涌井洋治氏の失脚に伴うものだった。旧来の大蔵官僚の考え方に則るならば一度、内閣内政審議室長に出た田波氏はそこで大蔵官僚としてのキャリアは終わっている。
日銀総裁の椅子はアクシデントで事務次官になった者が座るものではない。武藤氏の怒りはその大蔵省的な価値観を踏みにじられたことへ向けられたものにほかならなかったのだ。
「花の昭和41年組」と呼ばれ、大蔵省にあっても傑出した人材が集まった年次と今もって語り伝えられている。長野厖士氏(元証券局長)、中島義雄氏(元財政金融研究所所長)、佐藤謙氏(元防衛事務次官)、中山恭子氏(元官房参事官)・・。この中に武藤氏はいた。
長野氏、中島氏といわばスター官僚の中にあって武藤氏はいかにも地味な存在だった。事実、武藤氏は大物大蔵官僚だった岳父の橋口収氏(元広島銀行頭取)に、
「ひっくり返ってもあの2人には敵わない」との言葉を漏らしていた。
地味な3番手の大蔵官僚を事務次官の椅子に座らせたのは金融当局を地獄に突き落とした1998年の日銀・大蔵接待汚職事件であった。
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