皆さんこんにちは。「水俣教育旅行プランニング」というNPOの代表を務めている吉永利夫と申します。普段、私は修学旅行生や研修で水俣に来る人たちに、水俣病に苦しむ患者家族や水俣の歴史、水俣の今の姿などを伝えています。
水俣というと、水俣病の町、汚れた海といったイメージが強いでしょう。でも、水俣は水俣病だけの町ではありません。日本でも有数の環境都市であることに加えて、温暖な気候を利用した安心・安全な農作物、森や川に恵まれた豊かな自然など、様々な顔を持っています。こうした水俣の多様な姿を、訪れる人々に伝えていきたいと日々活動しています。
「水俣病でメシを食え」。私は常々、こう連呼しています。水俣病という最悪の公害を生み出した水俣。その水俣だからこそ伝えられることがある。そして、それが水俣という地方都市の活性化につながる――。あえて過激な言い方をしているのはそのためです。
もちろん、水俣病は終わっていません。ただ、負の遺産をポジティブにとらえることは、新しい水俣を作る第一歩になるでしょう。そして、水俣の今の取り組みは、欧米の金融危機の余波を受け困難に直面する多くの人々に、何かしらの力を与えることができるのではないかと思っています。
前置きが長くなりましたが、このコラムでは今の水俣の姿を皆さんに伝えていきたいと思います。まずは、私自身のことから話していきましょう。
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水俣は水俣病の発生で世界に知られた小さな町です。私はこの水俣で、人生の半分以上を暮らしてきました。出身地の静岡から初めてこの町に降り立ったのは1972年1月。その時、私は20歳でした。それから38年、大事な人の命の終わりに数多く接してきました。私は58歳になりました。若かった頃の私に、多くの事を語りかけてくれた人々の年齢に、いつの間にか達してしまいました。
定時制高校を卒業した私のまわりには、いわゆる「学生運動」の残り火がありました。街頭デモに1〜2回参加した程度の私は「運動」の中身や方向性はまったく分からなかった。でも、「世の中を変える」という熱い思いは、接した人々から伝わっていました。
20歳で水俣の地を踏んだ
静岡を出て企業に就職する道や何かの夢を追って生きていく思いはまったくありませんでした。頭の中にあったのは何か漠然とした憂鬱だけ。だからでしょう。鹿児島に移住していた友人の誘いに乗って水俣の地に足を踏み入れました。この時は、「1週間ぐらいのぞいてみよう」という程度の気持ちでした。
水俣への途上、機会があって熊本の裁判を傍聴する機会がありました。当時、熊本地方裁判所では、苦難の毎日を送っていた水俣病患者が提訴した民事裁判が行われていたのです。元工場長に対する尋問だったと記憶しています。それまでは、裁判など別の世界のことだと思っていました。
そして、裁判終了後、水俣に帰る患者家族が乗るバスに同乗させてもらいました。バスの中で生まれて初めて焼酎を飲みました。家族のみなさんと水俣の地に降り立った時は、ほろ酔い気分でした。
静岡時代の友人にはこうクギを刺されていました。
「患者が戦っている現場だ。いい加減な気持ちで入るな」
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