• BPnet
  • ビジネス
  • IT
  • テクノロジー
  • 医療
  • 建設・不動産
  • TRENDY
  • WOMAN
  • ショッピング
  • 転職
  • ナショジオ
  • 日経電子版

民主党内「第2次経世会」の胎動

小沢一郎、「数の力」で政局の中心へ

  • 児玉 博

バックナンバー

2009年8月20日(木)

  • TalknoteTalknote
  • チャットワークチャットワーク
  • Facebook messengerFacebook messenger
  • PocketPocket
  • YammerYammer

※ 灰色文字になっているものは会員限定機能となります

無料会員登録

close

 かつて、元首相の竹下登が率いた自民党の最大派閥「経世会」は、その数の力を背景に、常に政局の中心にいた。経世会を無視した政局運営などありえなかった。

 その経世会で「宝」とも呼ばれていた選挙参謀がいた。その名を鈴木精七という。

吉田茂の懐刀だった大物国会議員の息子

 当選請負人として永田町でそこそこ名前が売れ始めた頃、ある候補者から選挙参謀の依頼が舞い込む。1968(昭和43)年のことであった。

 鈴木の前に現れた候補者は弱冠26歳の幼さが残る顔立ちの青年だった。

 41年前の小沢一郎(現民主党代表代行)である。当時、小沢は日本大学大学院に籍を置き、司法試験を目指す学生だった。

 小沢の父、佐重喜(さえき)は吉田茂の懐刀と呼ばれた大物国会議員だった。

 運輸大臣、建設大臣などを歴任。1960(昭和35)年には、時の首相、岸信介が批准に執念を燃やした日米安全保障条約で、岸から直々に特別委員長に任命され、大きな役割を果たした。

 1946(昭和21)年、戦後初の衆議院議員選挙で初当選して以来、小選挙区制導入を唱えていた佐重喜は1968(昭和43)年に急逝した。それを受け、急きょ、一部の後援者に背を押されて後継者として立候補を宣言したのが息子の一郎であった。

 典型的な2世議員のパターンである。

田中角栄に選挙のイロハを学ぶ

 ところが、先に「一部」と書いた通り、小沢佐重喜後援会、親族、小沢系県会議員、そして自民党本部の意向はそれぞれバラバラで、小沢擁立で一本化されていなかった。

 鈴木によれば、後の小沢一郎からは想像できないほど選挙戦は“逆風”そのものであり、当選する確率は50%ほどしかなかったという。

 事実、自民党本部の意向を取り付け、地元をまとめ上げようと小沢を伴って自民党本部の幹事長室を訪ねた時、こんなことがあった。

 対応したのは、後のロッキード事件で逮捕される田中角栄(元首相)の秘書、榎本敏夫である。挨拶もそこそこに榎本は鈴木らに向かい、小沢とは別の後継者の名前を挙げ、さもそれが党本部の決定のような口ぶりで話した。

コメント13

「児玉博の「見えざる構図」」のバックナンバー

一覧

日経ビジネスオンラインのトップページへ

記事のレビュー・コメント投稿機能は会員の方のみご利用いただけます

レビューを投稿する

この記事は参考になりましたか?
この記事をお薦めしますか?
読者レビューを見る

コメントを書く

ビジネストレンド

ビジネストレンド一覧

閉じる

いいねして最新記事をチェック

日経ビジネスオンライン

広告をスキップ

名言~日経ビジネス語録

人は何か自信を持って誇れるものを持っているはずです。

為末 大 元プロ陸上選手