1950年代の半ば、鹿児島で1人の「茶の虫」が地元に日本茶問屋を創業した。信頼できる農家と連携しながら共栄共存の体制を整え、世界に通じる有機緑茶を開発。いち早くEUや米国に進出した今、アジア圏やロシア市場に照準を定める。
取材中、「どうぞ」と差し出されたのは、「KEIKO」とネーミングされたグリーンのチョコレートだった。聞けば日本茶問屋、「下堂園」の看板商品である緑茶を使ったオーガニックチョコレートだという。

「海外での販路拡大を狙って開発した商品です」。同社の下堂園(しもどうぞの)豊社長は既に市場を切り開いた欧州連合(EU)や米国に続き、台湾やロシアへの展開もうかがう。知る人ぞ知る茶の産地、鹿児島で小さなグローバル企業はどう育ったのか。
鹿児島の茶業が飛躍的に成長したのは1960年代以後だ。官民一体となって栽培の促進や生産現場の機械化、流通の改善を推し進めた結果、70年には静岡に次ぐ国内第2位の茶所へと発展していった。
豊社長の父、實氏が同社を創業したのは54年。鹿児島茶の販路拡大と深蒸し茶の製造技術確立に力を注ぎ、70年代初めには年商3億円を売り上げる企業に成長する。
茶の良し悪しの大部分を担うのは、原料である生葉であり、それを1次加工した荒茶だ。同社は南薩摩の生産農家と共同で、茶葉の栽培方法や製茶方法の改善に着手した。渋くて苦いと言われた品種「ゆたかみどり」を深蒸しし、自社工場の火入れ乾燥技術を用いて焙煎香がつくほどの強い火を入れたところ、コーヒーのように強い香りと喉越しが生まれた。こうして、インパクトのある深蒸しの緑茶、ゆたかみどりが誕生した。ほかの品種より早く収穫でき収量も多い同品種はその後、成長を支える存在となる。
77年には東京に営業所を開設。業績は右肩上がりだったが、3年後、志半ばにして實氏が他界する。32歳にして後を継いだのが、当時販売を担当していた息子で現社長の豊氏だ。
「静岡の壁を打ち破れ」
豊氏はゆたかみどりを武器に、県内でいち早く東京の市場開拓に取り組む。だが当初は小売店に出向いても「茶は静岡が一番。鹿児島茶など飲めたものではない」と一蹴されるばかり。加えて、ゆたかみどりの鮮やかな緑色と強い香りは取引先から「着味、着香では」と疑われ、なかなか店頭に並べてもらえない。
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