「砂浜美術館」を成功に導いたグラフィックデザイナー、梅原真。彼は地域ブランドとして知られている商品やプロジェクトに数多く関わってきた。古くは馬路村の「ぽん酢しょうゆ ゆずの村」に始まり、第2話でも詳しく触れた明神水産の「藁焼き鰹たたき」、島根県海士町の「島じゃ常識 さざえカレー」、新聞紙バックの「四万十ドラマ」など、いくつもの地域ブランドを送り出した。
なぜ梅原が関与すると成功するのか。なぜ地域ブランドとして立ち上がるのか――。今回は「高知アイス」の成功物語を紐解きながらこの疑問を解明していきたい。商品開発は企業の肝。地域経済にとっても必要不可欠な存在だ。梅原の考え方はブランド作りの1つのヒントになるのではないだろうか。
高知県内を縦横に結ぶ国道や県道をレンタカーで走り回ると、しばしば気になる光景に出くわす。それは、道端に佇むカラフルなパラソル。高知県でポピュラーな「アイスクリン」の移動店舗である。麦わら帽子をかぶった販売員と移動店舗のパラソルは土佐の夏の風物詩だ。
土佐の風景の一部をなしているアイスクリン。このアイスクリンにこだわり、全国にその味を届けている企業が高知県いの町にあった。有限会社「高知アイス」。清流、仁淀川の上流部に本社を置く小さな会社である。
「アイスクリン」の急成長にもあの男がいた
懐かしの味、アイスクリンや土佐佐賀の天日塩を使った天日塩アイス、旧吾北村のユズ、土佐市の文旦、室戸市のポンカン、香我美町山北のミカン、旧十和村の栗など、高知県の素材を使ったアイスクリンやシャーベットを全国で販売している。
売上高は3億2000万円(2009年10月期)。規模で見れば、中小企業の域を出ない。だが、ここ数年の急成長が著しい。
2002年10月期に6000万円だった売上高は翌年度に1億円を突破した。それ以降も確実に売り上げを増やしている。しかも、売上高の95%は高知県外で稼ぎ出したもの。高知県は県内産品を県外で販売する「地産外商」を進めている。高知アイスはその代表格に数えられる存在になった。
高知アイスの急成長。そのきっかけを作ったのはこの連載の主人公、梅原真だった。農林漁業と地域のために絵筆を振るう。そんな気骨溢れるデザイナーである。
1988年に創業した高知アイスだが、その後の十数年は3000万〜4000万円程度の売上高しかなかった。最も売り上げを出した年も6000万円ほど。高い品質や丁寧な仕事ぶりには定評があったものの、ブレイクの兆しはまったくなかった。
ところが、2002年、梅原にデザインを含めたプロデュースを依頼するや否や、高知アイスは上昇気流に乗ったがごとく右肩上がりの成長を始めた。
梅原は何をしたのか。今からそれを見ていく。ものが売れるとはどういうことか、地域ブランドとは何か――。それが明らかになるに違いない。高知アイスの物語。まずはこの男の話から始めよう。
モジモジ話す体重126キロの元カツオ漁師
高知アイスの代表、浜町文也。1959年生まれの50歳。身長176センチメートル、体重126キロと、梅原にも劣らない巨漢である。ただ、見た目と違って、性格はかなり可愛らしい。いつもニコニコ、笑みを絶やさない。その体に似合わず、モジモジ話すところがどこかおかしい。
出身は明神水産でお馴染みの土佐佐賀町(現黒潮町)。この町の多くの子弟がそうであるように、中学卒業後、鰹一本釣り漁の漁師として太平洋を転戦している。正直なところ、元漁師には見えないが、漁師時代には月50万円を稼いでいた、という。
その後、6年ほど漁師を続けた浜町は結婚を機に陸に上がり、サラリーマンになった。勤め先はビデオ制作会社。副業としてアイスクリンを販売していた。アイスクリンの担当になった浜町。全国で開かれる百貨店の物産展を回り、アイスクリンの販売に汗を流した。
物産展での販売は出張続きの過酷な仕事。それでも、浜町が売りに来るアイスクリンを楽しみにしている顧客が全国に大勢いた。その人たちに高知の味を届けることに、浜町は使命感を感じていた。だからだろう。ビデオ制作会社がアイスクリン販売から撤退した際、浜町は迷うことなく生命保険を解約した。1988年、28歳のことである。
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