「古典の翻訳がさっぱり分からなかった人へ」

第9回 新しい翻訳の可能性

エンターテインメント分野での“ノーベル賞級”の名訳

バックナンバー

2010年2月4日(木)

1/2ページ

印刷ページ

前回から読む)

 翻訳調の翻訳の問題点にいち早く気づいて、新しい翻訳のスタイルを確立してきたのは、意外ではないはずだが、エンターテインメント小説の分野である。勉強のために読むのなら、少々理解しにくくても必死に考えるし、原書を読むのが正しい方法だと教えられれば、無理してでも原書を読もうとする。だが、エンターテインメントの小説は楽しみのために読むものだ。原書と対照して読む人などいるはずがない。

忠実に訳しながらも質の高い日本語

 典型的な例を示してみよう。訳書が出版されたのは1967年、訳者が30歳のときの作品である。

 おもむろに、もったいぶって、スターは煙草をもみ消した。ヴァレリー艦長はその仕種に、なんとなく決断と最終的態度があらわれているように思った。彼はつぎになにがくるかを知って、すると一瞬、ひりりと刺すようなにがい敗北感が、このところ前頭部から消えぬ鈍痛のあいだをつらぬいた。が、それもほんの一瞬だった。彼は疲れていた。意に介するにはあまりに疲れていた。(アリステア・マクリーン著村上博基訳『女王陛下のユリシーズ号』ハヤカワ文庫、15ページ)

Slowly, deliberately, Starr crushed out the butt of his cigarette. The gesture, Captain Vallery thought, held a curious air of decision and finality. He knew what was coming next, and, just for a moment, the sharp bitterness of defeat cut through that dull ache that never left his forehead nowadays. But it was only for a moment -- he was too tired really, far too tired to care. (Alistair Maclean, HMS "Ulysses", Compassion Press, p. 1)

 訳文を読むと、この小説に相応しい見事な文体で訳されていることに感嘆する。翻訳ではないのではないかと思えるほど、日本語の質が高い。原文と比較すると驚きが倍加する。原文からある程度離れて自由に訳すのなら、名文を書くこともできる。ところが訳者は原文の一語一句もおろそかにせず、じつに丁寧に、忠実に訳している。ここまで忠実に訳していて、しかも日本語の質が高いというのは、いってみれば、両手を後ろ手に縛って綱渡りをするようなものだ。

 たとえば冒頭の2つの副詞をみてみればいい。まず、slowlyは「ゆっくり」と訳すことになっている。だが、英語のslowlyと日本語の「ゆっくり」は同じではない。同じであるはずがない。文脈によって意味が少しずつ違う。文脈によって、正しいとされている訳語が正しくない場合もある。この文脈で原著者は何を表現したのか。その点を読み取って、村上博基は「おもむろに」と訳した。英和辞典には出ていない訳語だが、村上訳を読むと、この場面ではこう訳すしかないと思えるほどの名訳だ。つぎの「もったいぶって」は文化勲章に値する、いやノーベル賞に値する訳だと思う。原文にあるdeliberatelyをこの文脈で訳すには、これ以外にないと思えてくる。原著者が日本語で書いたとすれば、こう書くだろうと思える訳である。

 村上博基の翻訳スタイルは、幕末明治初期の福沢諭吉や中村正直のスタイルとは違っている。原文の1語ずつを丁寧に訳す翻訳調の利点を受け継いでいる。たとえば、このslowly, deliberatelyという2つの副詞は類語である。英語ではこのように類語を並べる癖があるので、日本語に訳すときは1語で訳しても問題はないとも思える。だが、村上博基は2語で訳す。しかも文脈にぴったりの言葉で。

ここから先は「日経ビジネスオンライン」の会員の方(登録は無料)、「日経ビジネス購読者限定サービス」の会員の方のみ、ご利用いただけます。ご登録のうえ、「ログイン」状態にしてご利用ください。登録(無料)やログインの方法は次ページをご覧ください。



関連記事

Keyword(クリックするとそのキーワードで記事検索をします)

Feedback

  • コメントする
  • 皆様の評価を見る
内容は…
この記事は…
コメント1 件(コメントを読む)
トラックバック
著者プロフィール

このコラムについて

古典の翻訳がさっぱり分からなかった人へ

経済、経営分野など翻訳の第一人者が、翻訳を通して日本の近代化の過程を語る10回シリーズのコラムです。『国富論』、「アメリカ独立宣言」、『源氏物語』、『自由論』など、古典の翻訳を例にとって、なぜそのように訳されたのかをはじめ、明治の翻訳が日本の近代化に果たした役割の大きさについて述べていきます。さらに、エンターテインメント小説分野の考察では、新たな翻訳の可能性についても言及します。

⇒ 記事一覧

記事を探す

読みましたか〜読者注目の記事

  • いま、歩き出す未来への道 復興ニッポン

日経ビジネスからのご案内