(前回から読む)
翻訳調の翻訳の問題点にいち早く気づいて、新しい翻訳のスタイルを確立してきたのは、意外ではないはずだが、エンターテインメント小説の分野である。勉強のために読むのなら、少々理解しにくくても必死に考えるし、原書を読むのが正しい方法だと教えられれば、無理してでも原書を読もうとする。だが、エンターテインメントの小説は楽しみのために読むものだ。原書と対照して読む人などいるはずがない。
忠実に訳しながらも質の高い日本語
典型的な例を示してみよう。訳書が出版されたのは1967年、訳者が30歳のときの作品である。
おもむろに、もったいぶって、スターは煙草をもみ消した。ヴァレリー艦長はその仕種に、なんとなく決断と最終的態度があらわれているように思った。彼はつぎになにがくるかを知って、すると一瞬、ひりりと刺すようなにがい敗北感が、このところ前頭部から消えぬ鈍痛のあいだをつらぬいた。が、それもほんの一瞬だった。彼は疲れていた。意に介するにはあまりに疲れていた。(アリステア・マクリーン著村上博基訳『女王陛下のユリシーズ号』ハヤカワ文庫、15ページ)
Slowly, deliberately, Starr crushed out the butt of his cigarette. The gesture, Captain Vallery thought, held a curious air of decision and finality. He knew what was coming next, and, just for a moment, the sharp bitterness of defeat cut through that dull ache that never left his forehead nowadays. But it was only for a moment -- he was too tired really, far too tired to care. (Alistair Maclean, HMS "Ulysses", Compassion Press, p. 1)
訳文を読むと、この小説に相応しい見事な文体で訳されていることに感嘆する。翻訳ではないのではないかと思えるほど、日本語の質が高い。原文と比較すると驚きが倍加する。原文からある程度離れて自由に訳すのなら、名文を書くこともできる。ところが訳者は原文の一語一句もおろそかにせず、じつに丁寧に、忠実に訳している。ここまで忠実に訳していて、しかも日本語の質が高いというのは、いってみれば、両手を後ろ手に縛って綱渡りをするようなものだ。
たとえば冒頭の2つの副詞をみてみればいい。まず、slowlyは「ゆっくり」と訳すことになっている。だが、英語のslowlyと日本語の「ゆっくり」は同じではない。同じであるはずがない。文脈によって意味が少しずつ違う。文脈によって、正しいとされている訳語が正しくない場合もある。この文脈で原著者は何を表現したのか。その点を読み取って、村上博基は「おもむろに」と訳した。英和辞典には出ていない訳語だが、村上訳を読むと、この場面ではこう訳すしかないと思えるほどの名訳だ。つぎの「もったいぶって」は文化勲章に値する、いやノーベル賞に値する訳だと思う。原文にあるdeliberatelyをこの文脈で訳すには、これ以外にないと思えてくる。原著者が日本語で書いたとすれば、こう書くだろうと思える訳である。
村上博基の翻訳スタイルは、幕末明治初期の福沢諭吉や中村正直のスタイルとは違っている。原文の1語ずつを丁寧に訳す翻訳調の利点を受け継いでいる。たとえば、このslowly, deliberatelyという2つの副詞は類語である。英語ではこのように類語を並べる癖があるので、日本語に訳すときは1語で訳しても問題はないとも思える。だが、村上博基は2語で訳す。しかも文脈にぴったりの言葉で。
ここから先は「日経ビジネスオンライン」の会員の方(登録は無料)、「日経ビジネス購読者限定サービス」の会員の方のみ、ご利用いただけます。ご登録のうえ、「ログイン」状態にしてご利用ください。登録(無料)やログインの方法は次ページをご覧ください。










