前回、“Or”の人生ではなくて“And”の人生を過ごしてみませんか?という提案をみなさんにした。AをやるならBを我慢、BをやるならCを我慢・・という二択を繰り返して、人生の着地点を日々縮めていくより、やりたいならAもBも、はたまたCもひっくるめてやれる方法を、自分で考えて欲張りに生きたほうが楽しい、だから自分なりの座標軸をもって、人生を組み立ててみよう、という話だった。ただ、”Or”か””And”か、という話は、結局は本人の価値観や人生観の問題だと片付けてしまえば、それはそれでおさまりがつくテーマでもあるので、「まー柴沼さんだから出来る話なんですよ!」と言われてしまえば、それで終わる。見方によっては、ちょっとオメデタイ話にも聞こえなくもないので、自分との距離をちょっと感じる方もいるかもしれない。
実際、第1回、2回の連載ではやくもいろいろとコメントも頂き、WEBでのコラム初体験の私は毎回ドキドキしながら読ませて頂いているのだが、その内容は「そうだ、そうだ」というものと「その通りだと思うけど、出来ないのが現実なんです」というものに、大きく分かれている。コメントはあえてしないまでも、「いやー自分はそんなにがっつかなくてもいいよ」という読者の方も、きっといるのだろうな、と思う。
だから、今回はちょっと視点をかえて、世の中全体の変化は、個人の人生のあり方にどんな影響を及ぼしているのか、というアングルで整理してみようと思う。結論から言うと、今の世の中は「3つの価値の分散」によって、これまでにないマグニチュードの変化の中にある。そしてその「3つの価値の分散」の結果、“And人生論”が、好む好まざるに関わらず個人の生き方に迫ってくるのではないか、と私は思うのだ。もっというなら、“Or人生”を追求することが、社会的、経済的にみて合理的であった世の中が終焉を迎え、”And人生“でないと生き抜けない時代が来ているのではないか。脅かすわけではないが、「いや、別に私は”And人生“じゃなくてもいいですよ」と言って済ませていられる世の中では、なくなってくるかもしれない、というお話だ。
今、日本企業が直面する曲がり角「三種の神器」の終焉
これまでの日本の社会や日本企業は、「終身雇用」「年功序列」「企業組合」はという3種の神器に守られてきた。これらの神器のおかげで、社員は入社以降数年間の教育をふんだんに受け、会社のルールを丁寧に学び、数年単位のジョブ・ローテーションで一人前への階段をゆっくりと上っていく、ということを当然のこととして受け入れてきた。ゆったりとした時間の流れの中、共有された一つの風土文化に包まれ、特に社員同士も大きな差をつけられることはなく、仕事と生活も保証されている。そんな風に手厚く面倒を見てくれる会社には、滅私奉公で貢献するのが当たり前。夫は昼夜、週末を問わずモーレツに働いて業務にいそしむ一方、妻は会社が提供してくれる社宅で子育てに専念、という分業体制が確立されていた。日本社会構造が、三種の神器に代表される企業の経営構造を反映する形で作り上げられてきたのが、戦後数十年間であったと言える。
ところがここにきて、その護送船団方式の日本の企業経営はその足元が揺らぎ始めている。売れるはずのものが売れなくなる。容易に調達できていたものが調達できなくなる。回避出来たリスクが回避できなくなる。払えていた給料が払えなくなる。辞めないはずの社員が辞めていく・・・。要は、これまでうまくいっていたはずのものが、突然ことごとくうまくいかなくなるという状況に直面しているのだ。では地殻変動とも言えるこの大きな変化は、なぜ起きたのだろう?私は、その要因が「3つの価値の分散」だと考えている。3つの価値とは、「経済」「情報」、そして「付加価値」だ。これら3つの全く異なる次元にある価値が、一気に分散してしまい、複合的かつ立体的に作用し合っているために、従来のように小手先の調整を繰り出しても、まったく太刀打ちできなくなっているのだ。環境の変化に企業がついていけなければ、それはすなわちそこで働く個人にも大きな影響があることを意味する。この地殻変動は、もはや企業経営の問題や景気の問題にとどまらない、個人も含めた社会全体のテーマなのだ。
分散する価値その1「経済価値」:ゼロ成長時代の「産業の空洞化」
今日はなんだか読みにくい。ここでやめようか・・と思った方、ちょっと頑張って付き合って頂きたい。俄然これから先の本欄が読みやすくなるはずだし、日ごろ自分の周りで起きていることにも、よくよく考えるとつながる点も多いのではないかと思う。
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