1998年の夏、いざアウディへ。
オファーを受け私は念願のアウディに移籍することになりました。が、私はその時点でドイツ語のドの字も知りませんでした。見事なまでに読み書きゼロ、会話ゼロの状態でドイツに向かったのです。英国留学経験はあったものの、英語も仕事で通用するレベルではありませんでした。いま思えば全く無謀ですが、行けば何とかなるだろうと思っていました。
アウディのドアを開けてみると、デザイン部の半分はドイツ人以外の外国人、もちろん日本人は私1人で、コミュニケーションは半分がドイツ語、半分が英語でした。外国人を多く抱える企業は似たような状況ではないでしょうか。
私はなんとかして、言葉に頼らずに私自身を伝えなければなりませんでした。語学力が足りていなかった私のコミュニケーション手段とは。
1枚のスケッチから
初めてのプロジェクトとなったアウディ「A6」。デザイン部内での第1回プレゼンテーションでのことです。
アウディにとっては初の日本人デザイナーがどんな絵を描くのだろうか。競争心旺盛なデザイナーたちは誰もが好奇心いっぱいで集まっていたと思います。私のスケッチを見たとたんにスタジオ内がザワザワとなりました。そのうちに若いデザイナーの声が聞こえてきました。“Super Cool!(超カッコイイ)”。
和紙に描いたそのA6のスケッチは、私が幼い頃に描いていたマンガと習字のテクニックを応用した山水画のようなタッチのものでした。才能豊かなアウディのデザイナーたちは私のスケッチの技量と同時に、和紙やマンガ、そして習字といった日本文化のレベルの高さ、洗練性を感じ取りつつ私を受け入れてくれたようでした。
ドイツ語も英語もろくに使えなかった私のアウディでのコミュニケーションは、こうしてたった1枚のスケッチから始まりました。言葉で説明できない分、説得力のあるデザインを見せて感じてもらうしかありません。
海外ブランドのインハウスデザイナーは国籍や文化を超えた『個』の能力重視の採用であり、デザイナーとしての才能が最優先です。社内のクリエイション向上のための起爆剤として外国人を採用する意味合いもあり、語学力はトッププライオリティではないために、私のような人間にも道が開かれたわけです。
しかしここからが問題。デザインの才能だけでも始めの数年は持つのですが、それなりの成果が生まれるにつれて別のハードルが現れてくるのです。『新たなコミュニケーション』の必要性です。
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デザイナー、SWdesign TOKYO代表、Audi Design Partner。1961年東京生まれ。武蔵野美術大学卒。84年日産自動車入社。シニアデザイナーとして、初代セフィーロ(88年)、初代プレセア(89年)、セフィーロワゴン(96年)などの量販車を担当した。89〜91年、英国ロイヤル・カレッジ・オブ・アート留学。日産勤務時代最後の作品として電気自動車のハイパーミニをデザインした。98年、アウディAG/アウディ・デザインへ移籍。シニアデザイナー兼クリエーティブマネジャーとして、現行のA6、Q7などの主力車種を担当した。アウディのシンボルとも言えるシングルフレームグリルをデザインし、その後「世界でもっとも美しいクーペ」と評されるA5を担当した。そのほかAudi Pikes Peak Quattro、Audi Avantissimoなどのショーカーも担当した。2009年6月アウディから独立。自身のデザインスタジオ「

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