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200年以上続く老舗社長が語る 「陸前高田も会社も無くなりました」

2011年3月15日(火)

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陸前高田近郊の山から広田湾を望む

 津波で壊滅的な打撃を受けた岩手県陸前高田市。この街には、200年以上にわたって醤油や味噌を製造している老舗企業がある。八木澤商店だ。岩手県産の大豆や小麦を使った「生揚醤油」、陸前高田近郊の大豆やコメを使った「おらほの味噌」など、無添加の醤油や味噌で全国に根強いファンがいた。

八木澤商店の8代目社長 河野和義氏

 品質に対する評価も高く、2009年の全国醤油品評会では、同社の醤油が日本一に相当する農林水産省の筆頭に選ばれたほど。白壁のなまこ壁と、店構えも創業1807年に相応しいものだった。だが、今回の東日本巨大地震によって、八木澤商店は工場もろとも瓦礫の山と化した。

 「陸前高田は全滅しました。さっき、テレビの映像を見ましたが、私の家も、会社も、(かつて会長を務めた)酔仙酒造もなくなりました。もう終わりです」。

 東京出張のため、奇跡的に難を逃れた八木澤商店の8代目、河野和義氏は電話先でつぶやいた。200年以上、営々と積み上げてきた生産機能は失われた。

「陸前高田にリーダー」がいると聞いて陸前高田に

 八木澤商店の取材で陸前高田を訪ねたのは昨年3月のこと。陸前高田に行動力と決断力を併せ持つ地域リーダーがいると聞いたためだ。事実、河野氏は民間のリーダーとして太鼓の甲子園と言われている「全国太鼓フェスティバル」を立ち上げるなど、様々な街作りに取り組んできた。

 「まっとうなものをまっとうに作る」。昨年3月にこう語っていた河野氏。その言葉を象徴するように、原価が7~8倍も違うにも関わらず、輸入の脱脂大豆でなく県内産の大豆を使い続けた。「搾り」も香りを重視するために、梃子の重石で時間をかけて搾り取る古くからの製法を取っていた。すべて、まっとうなものを作るためだった。

 もろみにアミノ酸液を加えて熟成させる混合醸造方式や醤油にアミノ酸液を加えた混合方式が増える中で、もろみを長時間熟成させる本醸造にこだわったのも、熟成に2年の歳月をかけているのも、本物の醤油を作るためだ。

 「本醸造は80度を超えると本当にいい香りになるんだよ。化学調味料や糖分が入っていると焦げ臭くなるが、本醸造だと焦げてもいい香りなんだ」。河野氏はそう言うと、実際にホットプレートに醤油を垂らした。辺り一面に、香ばしい醤油の香りが漂ったことを思い出す。

 河野氏が原料や製法にこだわった醤油造りに取り組んだのは今から29年前、昭和57年(1982年)のことだ。その目的は技術を後世に残すためだった。初絞りは2年後の昭和59年。原価を無視して作った醤油だったため、贈答用として知り合いに配った。すると、「もっとほしい」「いくらなのか」という声がいくつも上がった。

なまこ壁の本店
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昔ながらの店内
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 「こんなの値のつけようがねえよ」。苦笑した河野氏だったが、試しに逆算してみると、一升3000円は必要だった。父親の7代目に相談すると、「昔は醤油一升と男の散髪代は一緒だった。お前はまともなことをしたんだよ」。この言葉に背中をされた河野氏は「生揚醤油」の商品化を決めた。

 独自の醤油造りを始めようとした当時、「若社長の道楽」と思った工場長は反対した。確かに、当時は輸入産の脱脂大豆を使った醤油造りが全盛期。いかに早く、安く作るか。それが、醤油メーカーの当然の発想だった。国産原料を使用し、熟成に2年かけるという河野氏の構想に、不安を覚えるのも無理はない。

 「ついていけない」。辞表を出そうとした工場長に、河野氏は粘り強く説得した。「今やらなければ、9代目、10代目に技術を伝承できない」。その言葉に打たれた工場長は職人魂を発揮。機械搾りを想定していた河野氏に、昔ながらの梃子を使った絞りを提案したという。

 「まっとうなものを、まっとうに作れば自給率も上がる」。そう語っていた河野氏のモノ作りは丁寧だった。

 同社の隠れたヒット商品に「黄金さんま」という缶詰がある。刺身でも食べられるほど脂ののったサンマ、生揚醤油、みりん、砂糖――。すべて一流のものを使用した黄金さんまは缶詰の域を超えていた。私事になるが、私の結婚パーティでは引き出物として黄金さんまを配った。それくらいおいしかった。

キュウリの漬物にも定評がある

 キュウリの漬け物にも定評があった。

 「付加価値をつけてくれんか」。25年前、ある地元の農家が規格外となったキュウリの商品化を相談してきた。初めは断ったが、「どうしても」と言う。断りきれずに、地元の高齢者のところを回ってみると、漬け物の名人がいた。その女性の教え通り、杉樽1つ分のキュウリを漬けたところ、大きな反響を呼んだ。

 「これは商売になる」。そう感じた河野氏の関心は土作りに向かった。漬け物を漬け始めた頃、近隣の農家は自根キュウリを栽培していた。だが、1980年代も半ばになると、カボチャに接ぎ木したキュウリが当たり前に。接ぎ木キュウリは皮が固いため、塩が中まで浸透しないという問題があった。

 「昔のキュウリを作ってほしい」。そう農家にお願いしたが、接ぎ木キュウリの方が栽培が楽なこともあり、軒並み断られた。ならば、「それならおれが昔のうんめぁキュウリを作ってやるよ」。逆に燃えた河野氏は、キュウリ栽培そのものに乗り出した。

 もっとも、初めの収量は散々だった。3年間、無農薬のキュウリ作りに挑戦したが、収量はまったく増えず、「あれは理想と現実の畑だから」と農家が指を指して笑った。土作りからやり直すほかにない――。覚悟を決めた河野氏は発酵の知識を土作りに応用した。

 カキ殻の粉末や炭、羊毛、薄めた海水を畑に散布。微生物の活動を活発化させるため、考えられるすべてのことに取り組んだ。その成果だろうか。5年目が過ぎると、まともなキュウリが育ち始め、6年目には農家と同じ収量を確保するまでに。八木澤商店のキュウリは2つに折ってもくっつくほどの糖度を誇った。

 地元の顔役でもあった河野氏。1989年に陸前高田市で始まった「全国太鼓フェスティバル」を企画、1999年まで実行委員長を務めていた。このほかにも、河野氏は「地元学」を提唱した水俣市の元職員、吉本哲郎氏とともに「高田地元学」を提唱、地元学をより実践的な学問に昇華させた。地元学は水俣で生まれ、陸前高田で育った」。吉本氏は振り返る。

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 河野氏が取り組んだ無添加の醤油や味噌はネット上でも評判を呼んでいた。

 昨年の取材で訪れた少し前には、バスで乗り付けたコロプラの会員が八木澤商店の製品を20万円近く買い求めた。八木澤商店はコロプラが認定した日本の逸品の1社。同社の醤油や味噌を買えばコロプラの「コロカ」がもらえるためだ。ものづくりに対する河野氏の哲学が広く理解され始めていただけに、店の消滅が惜しい。

 河野氏は八木澤商店の永続と技術の伝承を願っていた。河野氏は自根キュウリを復活させるべく土作りに尽力していた。河野氏は陸前高田をもり立てるために半生をかけていた。だが、今回の地震と津波ですべて灰燼に帰した。その心中、筆舌に尽くしがたい。

 3月14日時点の間接的な情報だが、家族は避難して無事という情報が入った。河野氏は陸路、愛する故郷に戻った。だが、河野氏が半生をかけた陸前高田は存在しない。自然に対して、時に人間は無力である。それでも、前を向き、歩を進めなければならない。生きている我々にできることはそれしかない。

工場の屋上から広田湾を望む

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