「脱・幼稚者で行こう!」

世界を変えるのは、革命ではなくハッキング

『リトル・ピープルの時代』の評論家・宇野常寛氏に聞く

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2011年11月10日(木)

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価値観の多様化は、「正義」「公共」といった概念を共有することを難しくしている。拠り所になる「大きな物語」も失われているのに、私たちはまだそのイメージにすがりがちだ。時代のイメージを捉えなおし、現状を変えていく方法論として、村上春樹や「平成仮面ライダー」シリーズを扱い、話題になった『リトル・ピープルの時代』の著者、宇野常寛さんに聞いた。

―― 3.11と原発事故後の日本を、広島・長崎への原爆投下による第二次世界大戦の終結になぞらえて、「第二の敗戦」と呼ぶ人たちがいますね。

リトル・ピープルの時代』宇野常寛著/幻冬舎/2310円

宇野:それは、時代のとらえ方の例として“悪い意味で”とてもいいサンプルですね。僕の考えではそれはまったく違います。日本という社会が「原子力」によって大きな挫折を味わった点までは同じでも、その原子力が担っているイメージがまったく異なっているからです。

 原爆は国民国家同士の総力戦の結果、アメリカという自分たちの社会の〈外部〉から投下され、一瞬にして広島や長崎を焼き尽くした。そして日本は降伏しました。まさに一瞬ですべてを書き換えてしまった巨大な力としてイメージされています。

 だからこそその後の、例えば1970年代、80年代までの冷戦下におけるファンタジー的な想像力にあっては、核戦争がつねに「世界の終わり」的なヴィジョンとして位置づけられ、原子力は絶対的な力のイメージとして活用されてきたのです。

 けれども端的に言って、原発が爆発しても世界は終わらなかったわけです。

すでに「新しい世界」にわたしたちはいる

宇野常寛(うの・つねひろ)
評論家。1978年生まれ。批評誌〈PLANETS〉編集長。現代ポップカルチャー分析を中心に、文芸批評、社会時評、メディア論などを手がける。他の著書に『ゼロ年代の想像力』(早川書房)。共著に更科修一郎氏との時評対談集『批評のジェノサイス −サブカルチャー最終審判』(サイゾー)。企画・編集参加に『思想地図 vol.4』(NHK出版)、「朝日ジャーナル 日本破壊計画」(朝日新聞出版)など。明治学院大学非常勤講師(本年度のみ)。(写真:大槻 純一、以下同)

宇野:事故処理は長期にわたると言われ、その間、日常を維持したまま、所々にノイズのようにその影響が入り込んでくる。オンとオフが切り替わるように変わるのではなく、日常と非日常が混在したかたちで、目に見えない部分でじわじわと、いろいろなものが変化していく。今回の原発事故はそうしたイメージですよね。しかも、原発というのは私たちの世界の〈内部〉からの力です。自分たちが生み出しながら、暴走して手が付けられなくなったものです。

 ところが、こうした新しい大きな力を、私たちはうまく受け止められていない。

―― 私たちには、この事態をとらえるための社会的な想像力が不足していると。

宇野:そう。この新しいタイプの力に対して、イメージをどう構築すればいいのか。とはいえ、新しい力といっても急に降って沸いたわけではありません。

 20世紀後半、ことに冷戦後に、いわゆる「グローバル化」や「ネットワーク化」といわれるプロセスが全面化していくなかで、世界はひとつにつながっていき、象徴的な意味での〈外部〉というものが失われていきました。そして、そのような〈外部〉なき世界を前提にした、新しい力に根差した新しい想像力は、すでにさまざまな領域に観察されてきました。今回の東日本大地震と原発事故は、すでに進行していた変容を、「ああ、世の中は本当に変わっていたのだ」と、一挙に顕在化させているのです。

―― にもかかわらず、「第二の敗戦」と言ってしまうのは、古い想像力でもって新しい現象をとらえようとする姿勢だ、ということですね。

宇野:そうです。そして、本書のタイトルに使用した、村上春樹の『1Q84』の中の比喩を使えば、原爆が「ビッグ・ブラザー」的で、原発が「リトル・ピープル」的な破壊ということになります。世界を一瞬で終わらせる外部的な暴力と、世界にじわじわと浸透していく内部的な暴力。ところが困ったことに、当の春樹が古い想像力を脱し切れていない。

 たとえば、話題となった例のエルサレム演説での「壁と卵」の話です。そこで春樹は「壁」(権力)と「卵」(人間)というかたちで、「悪」と「正義」を截然と切り分けられるかのように話しています。しかしそれは、自らの〈外部〉に絶対的な悪を想定できたような、古い時代の想像力なのです。『1Q84』も新しい世界の想像力を、つまりは「リトル・ピープルの時代」を直感しながらも、描き切れていない。

 この本では、村上春樹が積み残した問題を僕が代わりに考えることで展開します。そのとき素材に用いるのが「ウルトラマン」や「仮面ライダー」といった特撮ヒーロー番組です。

 ヒーロー番組は、未就学児童、特に男子向けの玩具市場と密接に結びついています。言ってみればこの40年間、日本の子どもたちの素朴な欲望に応え、新しい見せ方、遊び方の概念を開発してきたジャンルなんですね。市場に拡散した、あるいは市場によって育まれた、大衆の無意識が生み出した表現の塊です。しかもその表現は、市場の要請によって「正義と悪」や「成長」といった、普遍的で大きなテーマで「描かされて」しまう。

 オールドタイプの文化批評家の中には、「市場は人間の欲望を画一化させ、ひいては文化をも画一化させる」なんてことを平気で言う人がいる。ポップカルチャー批評は市場分析だとしか思っていなかったり、「市場の趨勢に右顧左眄しない作品がいい作品だ」なんて世界観で生きている人がまだ結構いるんです。しかし、そんなのはただ、彼らが現実を知らないだけ。

 市場と結託しているがゆえに獲得される多様性や奇形的進化に、この国のポップカルチャーは溢れています。そしてその豊かさが、数少ない輸出可能な文化として機能してもいる。ヒーロー番組はそのうちのひとつですね。そこにはまさに現代的な「暴力」や「正義」の問題が強く露呈していて、村上春樹が積み残した問題を考える上でも大きな示唆を与えてくれます。

 

「国家」から物語を紡ぐ力が消えて

―― この本で語られる「ビッグ・ブラザー」、そして「リトル・ピープルの時代」とは、結局何なのでしょうか?

宇野:ビッグ・ブラザーというのは、かつての「国民国家」や「マルクス主義」のように、個人の人生を意味づける「物語」を与えてくれる〈父〉のような装置ですね。社会構造と人間個人との関係、旧い言葉を使えば「政治と文学」の関係がまさにビッグ・ブラザー的だったわけです。子ども=個人の人生を意味づける物語を与える〈父〉ですね。

 しかし、貨幣と情報のネットワークが国民国家の上位にある現代のような時代にあっては、そうした存在はもはやありえません。貨幣と情報のグローバルなネットワークの下位に存在するローカルな、そして非人格的な法システムとしての側面が強くなった国家は、同時に物語装置としての側面をも大きく後退させている。もう国家を〈父〉のような疑似人格の比喩で捉えることは有効ではないでしょう。

 これからは非人格的なシステム、貨幣と情報のグローバルなネットワークとの関係で「政治と文学」、社会構造と人間との関係を捉えた方がいいと僕は考えています。

 誤解しないで欲しいのは、別に僕は国家を軽視していいと考えているわけじゃない。だから、たとえばテレビに出て国会議員に文句を言うような仕事からも逃げずに引き受けているわけです。でも、オールドタイプの左(右)翼的な、疑似人格的、物語装置的な社会構造の捉え方ではこのグローバル/ネットワーク化時代の権力の問題を考えるのは難しいと思う。この二、三十年繰り返してきたように、文化左翼とか「新しい歴史教科書をつくる会」みたいな自分探し的な物語を求める人たちのヒーリングにしかならないんじゃないかと思います。

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著者プロフィール

芹沢 一也(せりざわ・かずや)

1968年東京生まれ。慶應義塾大学大学院社会学研究科博士課程修了。SYNODOS代表。専門は近代日本思想史、現代社会論。犯罪や狂気をめぐる歴史と現代社会との関わりを思想史的、社会学的に読み解いている。著書に『<法>から解放される権力』(新曜社)。『狂気と犯罪』『ホラーハウス社会』(ともに講談社+α新書)、『暴走するセキュリティ』(洋泉社新書)、浜井浩一との共著に『犯罪不安社会』(光文社新書)、編著に『時代がつくる「狂気」』(朝日選書)。高桑和己との共編著に『フーコーの後で』(慶應義塾大学出版会)。監修に『革命待望!』(ポプラ社)。



このコラムについて

脱・幼稚者で行こう!

 「誰かのせいにする。そこで考えを止める」−−我々はつい、こうした「幼稚」な道筋にはまってしまう。そこから抜けて冷静な議論をするには、あらかじめ知っておきたい、考えておきたい材料や課題がある。しかし、それらは研究機関や専門家の中では常識でも、メディアに分かりやすい形で出てくることがなかなかない。
 この企画は、若手研究者をつなぎ、「知のプラットフォーム」を謳うグループ、SYNODOS(リンクはこちら)を主催する芹沢一也氏に、アカデミックの先端で活躍する若手研究者と我々を接続してもらおうというものだ。現代の中で求められる「知」を、くだけた対話によって手に入れ、「幼稚」から脱出する手がかりをつかもう。

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