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「井戸を掘った人を忘れない」

岡崎嘉平太と周恩来

  • 服部 龍二

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2012年11月9日(金)

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日中貿易に尽力

 全日空社長などを歴任した経営者に岡崎嘉平太(かへいた)という人物がいました。岡崎は、財界人としても著名ですが、中国との関係拡大に尽力したことでも知られています。岡崎は周恩来総理らと会談を重ね、日中貿易を通じて、日中国交正常化を側面から支援しました。

 以下では、岡崎と中国、とりわけ周恩来との間柄について述べたいと思います。

 まず、岡崎のプロフィールを簡単に記しておきます。

 岡崎は1897年、岡山県吉備郡に生まれました。岡山中学、第一高等学校を経て、1922年に東京帝大を卒業し、日本銀行に入行します。日中戦争期には、中支那(なかしな)派遣軍特務部付となり、1939年には上海の華興商業銀行で理事に就任しました。太平洋戦争中の1942年には大東亜省参事官となり、翌1943年には在中国日本大使館参事官として上海に勤務します。

 戦後には公職追放を受けますが、1949年には池貝(いけがい)鉄鋼の社長に就きました。その後、丸善石油や全日空の社長を歴任します。1962年には高碕(たかさき)達之助衆議院議員らと訪中し、日中間の貿易に努めます。1964年には高碕の死去に伴い、日中総合貿易連絡協議会会長となります。日中国交正常化後の1972年11月には日中経済協会を設立し、常任顧問になりました。その後も訪中を繰り返し、1989年に亡くなっています。

戦前・戦中、上海華興商業銀行などで活躍

 それでは岡崎は、中国とどのようにかかわったのでしょうか。戦前にさかのぼってみたいと思います。

 岡崎には岡山中学校のとき、陳範九という中国人の学友がいて、中国への関心が芽生えました。第一高等学校のときには、龔徳柏(きょうとくはく)という友人がいました。対華21カ条要求が行われていた時代でしたので、龔徳柏は「日本という国は実にけしからん国だ。こんな国にはいたくないから中国に帰る」と言って帰国してしまいました。

 岡崎は学生のときから、「アジアでは日本と中国が――実は私はインドを含めて考えていたのですが――手を握ってまずアジアの文化を高め、アジアの貧乏を追放しなければいけない、アジアの中でお互いに争っていたら植民地の状態から永久に脱却できない、と思ってきました」。

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