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私が中国に対して“辛口”なわけ

2007年1月12日(金)

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 2007年の新年第1回目の「中国・キタムラリポート」に当たり、日頃ご愛読頂いている皆様に感謝の意を表しますと共に、筆者が本リポートを執筆する意図をご理解頂こうと思います。冗長に流れるきらいはありますが、是非最後までお読み頂き、筆者の厳しい視点が決して中国に対する偏見に発しているものでないことをご理解賜りたく。

中国社会との出合いは37年前

 筆者と中国との出会いは、今を去ること37年前の台湾旅行だった。卒業論文のテーマ「人種差別と偏見」に関連して台湾の高砂族の生活を調査することを1つの目的として、大学3年の夏休みに台湾を訪問したのが、中国社会に足を踏み入れた最初であったし、これが始めての海外旅行でもあった。貧乏学生であった筆者は、飛行機には乗れず、船で東京から当時まだ米国統治下にあった沖縄の那覇へ、那覇で船を乗り継いで台湾の基隆(キールン)へ、那覇での船待ちを含めて約1週間を要したが、楽しい船旅で、あっという間に感じられたものだった。

 基隆港に到着して台湾上陸の第一歩を印し、同じ船に乗り合わせた日本の学生たちと一緒に台北行きの列車に乗るべく基隆駅に向かった。駅に向かって歩き始めて市場らしき場所を通り過ぎようとしていた時、突然に貧しそうな老婆が立ちふさがり、筆者たちに向かって吼え始めた。言葉も分からず立ち往生していると、周囲の人たちが老婆をなだめて連れ去ったが、その後で日本語のできる人に聞くと、「戦争で死んだ息子を返せ」と我々に叫んでいたのだと言う。初の海外旅行という浮わついた気持ちは一気に冷め、筆者を含む学生たちは押し黙って神妙な顔つきで基隆駅に到着、列車で台北へと向かった。

 台北に到着した学生たちはそれぞれに分散し、一人となった筆者は高校時代の友人が滞在していると聞いていた李さんの家に電話を入れた。友人は旅行に出て不在だったが、李さんからは遠慮せず家に泊まれとの温かいお誘いを受け、ずうずうしくもお言葉に甘え、その日から李家に泊めて頂くこととなった。李家は台湾人の家庭で、両親に子供4人の6人家族だったが、親日一家で家族4人が日本語を話した。

 父親の李大林さんは、周囲の人々から善人として尊敬される人格者で、「南京東路の天皇陛下」という渾名をつけられていたが、中国の「大人」(たいじん)とはこういう人を言うのだろうと思わせる雰囲気を持っていた。

 長男の李民統さんは父親の血を引いた気のいい人物で、筆者は彼の結婚式の介添人を務めさせてもらうなど、その後長年にわたって「義兄弟」の付き合いをさせてもらったが、蒋経国総統と同じ鼻がんで10年程前に早世してしまい、それより先に亡くなった李大林さんと共に既にこの世にはいない。

 友人が旅から戻り、筆者が一週間程滞在させて頂いた李家から台湾周回の旅へ出発する際に、李大林さんから台南に行ったら華南商業銀行台南支店の支店長である蔡華堂さんを訪ねるようにと紹介を頂いた。台北から花蓮、台中を経て台南に着いた筆者はまたしても蔡さんのお宅に泊めていただく光栄に浴すこととなった。

 蔡華堂さんは博識な文化人で、悠揚たる物腰の人物だったが、夕食後の一時、筆者は蔡さんと次のような会話を交わした。

「中国人、中国社会、中国文化を知ることで、日本人と中国人の架け橋となりなさい」

 「北村さん、私たち世代の台湾人は日本の統治下で日本教育を受けたので日本語を話します。しかし、日本に代わって蒋介石の国民党が台湾にやって来てからは、中国語が標準語になりましたから新たに学びました。従い、私は自分たちの言葉である台湾語に日本語、さらに中国語を話します。あなたの外国語はどうですか?」
「いいえ、全くできません。恥ずかしながら日本語だけです」
「それなら、是非とも中国語を学びなさい。中国大陸は今のところ文化大革命で混乱していますが、必ず混乱は鎮まり、国力を充実させて大国となるでしょうし、台湾、香港、シンガポール、さらに全世界の華僑を加えれば、中国人社会の世界に対する影響力は大きなものと言えるでしょう。決して後悔はしないはずですから、中国語を学びなさい。そして、中国人、中国社会、中国文化を知ることで、日本人と中国人の架け橋となりなさい。今後の世界では、日本人と中国人が力を合わせてアジア人の力を世界に示すことが必要だと、私は信じています」

 一介の大学生である筆者に真摯に対応してくださった蔡華堂さんの助言は、その後の筆者の人生を方向づけることとなった。

 帰国した筆者はNHKラジオの中国語講座を10月からスタート、講座は4月から始まっていたので途中からではあったが、翌年の3月の講座終了までの6カ月間を筆者は全力を傾注して中国語を学んだ。外出する際には必ず小型の辞書を持ち歩き、道沿いの家々の表札、電車の中の吊り広告、車窓に見える看板の漢字を中国語で発音し、分からなければ辞書を引く。大学の講義が休講となれば図書館で中国語の新聞を読む、昼食時間には留学生の横に座って会話を聞きながら食べる。大阪でやったアルバイト期間中も中国語講座は一回も忘れずにテープに取って寸暇を惜しんで勉強した。

 こうして、大学4年の夏休みに学習の成果を確認すべく再度台湾を訪問した。しかしながら、悲しいことにいくら耳を澄ませても中国語は聞き取れないし、話そうにも言葉が出ない。一体全体、あの中国語学習は何だったんだろうと意気消沈したまま1週間が過ぎようとしていた時、天の啓示のごとく、突然に中国語が聞けるようになり、話せるようになった。理由は分からないが、下手くそながら、不自由なく会話ができるようになったのだから不思議である。語学とはそういうものなのかもしれないが、努力が報われたことは喜びであり、天にも昇る心地がした。

 一方、蔡華堂さんの助言を基に就職希望は商社と決めた。商社で華僑との貿易をやりたいというのがその志望理由となった。当時は大学3年の終わりには就職が決まるのが普通だったが、明確な志望を持っていたことが幸いしてか、多数の競争相手がいたにもかかわらず難関を突破して大手商社への入社が内定した。入社が内定した頃はまだ中国語が話せるわけでもなかったので、大学4年の夏休みに台湾で中国語が通じた時の喜びはひとしおだった。

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「私が中国に対して“辛口”なわけ」の著者

北村 豊

北村 豊(きたむら・ゆたか)

中国鑑測家

住友商事入社後アブダビ、ドバイ、北京、広州の駐在を経て、住友商事総合研究所で中国専任シニアアナリストとして活躍。2012年に住友商事を退職後、2013年からフリーランサーの中国研究者として中国鑑測家を名乗る。

※このプロフィールは、著者が日経ビジネスオンラインに記事を最後に執筆した時点のものです。

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