「中国“A女”の悲劇」

第8回 私が出合った<A女>たち(1)
〜年収2000万円相当、人柄最優先、でも結婚は“怖い”

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2008年5月23日(金)

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 上海にあるアメリカ(米国)系企業で働く美蘭(メイラン)は、今年35歳になる典型的な<A女>だ。収入は年収で40万元(日本円で600万円)というから、日本における生活に置き換えれば、少なくとも年収2000万円以上に相当すると考えていいだろうか。マンションを二つも持っている。車は危ないから買わないそうだ。というか、車など安いもの、さほどの価値があるとは思っていない。

 メイランは、その名のごとく実に美しい顔の持ち主でもあり、しかも女性的な魅力にも満ちている。

 その彼女が、なぜ結婚できないのか。
 いや、できないのではない。躊躇しているのだ。

 今まで<A男>は何人か彼女の前に現われたが、しかし、そのたびに「これは私が待っている白馬の王子様ではない」と思って躊躇し、それを重ねているうちに今日までに至っている。

 メイランが求めている「白馬の王子様」は決して「車あり、家あり、金あり、社会的地位あり」という、いわゆる「四有<A男>」ではない。彼女にとっては、そういう物質的なものは、どうでもいい。物質的条件なら自分自身が十分に備えている。重視しているのは「人物」、「人間性」である。

 彼女が生まれたのは1973年。まだ文革(文化大革命)も終わってなく、一人っ子政策は、もちろん始まっていなかった。一人っ子政策は、ほぼ改革開放とともに始まっている。だから彼女には5人の兄弟姉妹がいた。文革で両親はそれぞれひなびた辺境に下放され、子供たちは親戚に預けられたり両親が一人ずつ辺境に連れて行ったりなどして、別々に暮らしていた。彼女は父親が下放先に連れて行っていた。

 1976年に文革が終焉を告げ、みんな北京に戻ってきたが、成長の早い子供たちは、互いの顔が認識できないほどに疎遠になっていた。

 そして、改革開放が1978年の12月から始まった。それは自由競争と市場経済の始まりだった。

父母は改革開放の荒波で、子供どころではなく…

 改革開放までは、中国の全員が貧乏だったから、その意味では平等であり、しかも最低限度の生活は何とか維持できていた。しかし、市場経済が進むにつれ、競争ということを経験したことのない国営企業は不振に陥り、国営企業の倒産を招いたり、あるいは倒産する前に離職する者が激増し始めた。

 国営企業(後の国有企業)が不振に陥ったり倒産したりして職を失うことを「下崗(シャーガン)」と称する。これは「崗位(ガンウェイ)」という社会的に保証されている職場から下ろされることから出てきた言葉で、今では国有企業とは限らず、一般に失業したことを「下崗」と呼ぶようになっている。また知識分子や政府の役人などが、安定した職場を自ら離れて他の民間の職場を選んだりビジネスチャンスを求めたりすることを「下海(シャーハイ)」という。市場経済の激烈な競争の「大海」の中に飛び込むのである。そこではリスクとチャンスが待っている。

 海の中に飛び込めば、沈むかもしれない。あるいは海の中のおいしい魚介類を手にして浮上してくるかもしれない。「下海」した人たちは、沈んではならないと、危険な賭けに出ながらも、必死で獲物を手に這い上がってこようとした。

 1980年代、人々はこのような闘いの中にあり、メイランの両親も、その例外ではなかった。父親は「下海」し、母親は「下崗」してしまったのである。

 「下海」であれ「下崗」であれ、「下界」においては、自分で稼いだお金は自分のものとなる。それまでは働いても働かなくても収入は同じという悪平等があったので生産性がひどく低かったが、今は違う。稼げば稼いだ分だけ自分の懐に入れてもいいという時代がやってきたのだ。稼がなければ損というもの。文革で何もかも破壊された分だけ、ビジネスチャンスは、逆にゴロゴロ転がっているとも言える。誰がそこに目をつけるかだ。

 まさに「生き馬の目を抜く」ような熾烈な競争が始まった。

 両親は子供の面倒など見ているゆとりはない。5人もいれば、たしかにそうだろう。メイランは末っ子。物心ついたときから母とは暮らしたことがないので、母との関係も、なんだか疎遠だ。母親の方でも、自分が辺境の地に連れて行っていたメイランの兄の方を可愛がり、メイランには冷淡とまでは言わないにしろ、素っ気なかった。

 3歳になるまで母親の愛を知らず、ようやく母親が目の前にいる生活にはなったものの、7歳になって改革開放が始まり、まもなく両親も「下海」あるいは「下崗」して、5人の子供と自分たちの日々の生活を保障するのに必死で、それぞれが殺伐とした中で生きていた。唯一、自分を連れて辺境の地に追いやられていた父親だけが、ときたま愛情を込めて頭を撫でてくれたりした。それ以上に無上の幸せはなかった。

努力で収入と地位を勝ち得たメイラン

 その後、両親の収入も徐々に落ち着き、やがてメイランは北京のエリート大学に入学。入学時点では、まだ教育機関が法人化されてなかったので、学費を自分で負担する必要はなかった。「国家培養」といって、国が学費を負担し、その代わりに卒業後は国家の指定した国営企業で働く、という義務があった時代だ。しかし実質上は国営企業は破綻していたので、ほぼ最後の「国家培養」制度に乗った学生たちの一群であっただろう。「培養」とは「養成」、「育成」という意味である。

 メイランはものすごい勢いで勉強に打ち込み、優秀な成績で大学を卒業。卒業と同時に、北京にあるアメリカ系の企業に就職した。1997年のことだ。

 その職場には、35を過ぎているような感じの上司がいた。その上司は新入社員であるメイランに興味を持ったようだった。美しいだけでなく理知的で、それでいて何か自信なげな哀愁を帯びている。

 メイランにしてみれば、初めての職場であり、そうでなくとも頼りなげな気持ちだったのに、上司が何くれとなく気を遣ってくれるので、悪い気持ちはしなかった。もともと父親にのみ可愛がられて育った彼女は、母親の愛には餓えていたが、年上の男性には親近感を覚える感覚を持っている。

 二人はそれとなく付き合うようになり、食事に誘われたり、週末には映画に行くようなこともあった。このまま順調にいけば、結婚ということもあったかもしれない。しかし交際が深まるにつれて、上司には妻子がいることを知るようになる。

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著者プロフィール

遠藤 誉(えんどう・ほまれ)

 1941年、中国長春市生まれ、1953年帰国。理学博士、筑波大学名誉教授、東京福祉大学・国際交流センター センター長。(中国)国務院西部開発弁工室人材開発法規組人材開発顧問、(日本国)内閣府総合科学技術会議専門委員、中国社会科学院社会学研究所客員教授などを歴任。

 著書に『ネット大国中国――言論をめぐる攻防』(岩波新書)、『チャーズ』(読売新聞社、文春文庫)、『中国大学全覧2007』(厚有出版)、『茉莉花』(読売新聞社)、『中国がシリコンバレーとつながるとき』『中国動漫新人類〜日本のアニメと漫画が中国を動かす』(日経BP社)『拝金社会主義 中国』(ちくま新書) ほか多数。2児の母、孫2人。



このコラムについて

中国“A女”の悲劇

中国にも「負け犬」はいた。自らの力で高い社会地位を勝ち得、年収も男に負けない。容貌も美しい。そんな隙がない彼女=「A女」たちには、なぜか結婚相手が見つからないのだ。悩みは深く、自慢の娘に結婚相手を探そうと、数千人の父母たちが、日本で言うところの「釣書」を持って公園に集まるほど。この現象の背景にはなにがあるのか。大好評の連載『中国動漫新人類』に続き、遠藤誉博士が中国社会にふたたび挑む。

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