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インテル・イスラエルの35年

「ハイテク産業のヘルツル」ドブ・フローマンの夢

  • 佐藤 紀泰

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2009年11月17日(火)

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 世界最大の半導体メーカーである米インテル。この会社がパソコン向けMPU(超小型演算処理装置)で圧倒的な世界シェアを確保し、最近では高速通信「WiMAX」でも先行しているのは1974年にイスラエル・ハイファ市に開設した研究開発センター(IDC、イスラエル・デザイン・センター)の貢献が大きい。

 インテルはイスラエルに35億ドルを投資した最新鋭の半導体工場もあり、これまでの総投資額は70億ドル程度に達する。その最新鋭工場にしても、パレスチナ自治区ガザからミサイルが飛んでくるほどの距離にある。にもかかわらず、これほどの多額の投資を決断、継続しているのはやはり、イスラエルの技術的な貢献に報いるためとされる。

 イスラエルに進出したグローバル企業の中で、最も成功したとされるインテル。なぜ、それが可能だったのか。研究開発拠点を開設してからの35年を振り返りながら、イスラエルの活用法について考えてみたい。

たった5人から3000人強に

インテルの研究開発部門トップのヨッシ・シェンクラー・ゼネラル・マネージャー
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 現在、イスラエルの研究開発センターの責任者を務めるヨッシ・シェンクラー・ゼネラルマネージャー(GM)は「私は20年前の1989年11月にここに入社した。当時は300人ぐらいの世帯だったが、今では3000人を超えている。これほど拡大するとは思わなかった。やはりドブの貢献が大きい」と振り返る。

 ドブとはインテル創業時代から技術者として活躍したドブ・フローマン氏のことだ。

 1963年にイスラエルの名門テクニオン工科大学を卒業し、渡米した。名門フェアチャイルド・セミコンダクターに入り、そこでインテルの創業者であるゴードン・ムーア氏やアンディー・グローブ氏と出会う。ムーア氏らは1969年にインテルを創業し、すぐにフローマン氏も加わった。すぐにムーア氏らにイスラエルでの研究開発拠点の開設を進言する。

 当時としてはまだ、中東情勢が不透明であり、開発拠点の開設はリスクがあった。だが、フローマン氏は技術者として、インテル創業時の経営を支えた半導体メモリー「EPROM」の発明者。ムーア氏らもフローマン氏の熱意に押されて、許可した。

第4次中東戦争によって開設が延期

 実は開設日は1973年秋だった。だが、このタイミングでエジプトとシリアの連合軍がイスラエルに戦争を仕掛けた。これは第4次中東戦争であり、ユダヤ人にとって最大の祝日である「ヨム・キプール(贖罪日)」を狙っての奇襲攻撃だった。

インテルのイスラエルの開発拠点を育てたドブ・フローマン氏
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 これによって拠点開設は延期になるが、それでも翌年の1974年にはオープンし、フローマン氏は米国からイスラエルに戻り、技術者として次世代チップの開発に取り掛かる。最初はたったの5人からのスタートだった。だが、その後には1981年に開発したMPU「8088」は米IBMが自社のパソコン用に初めて調達したものであり、その後のインテルのMPU事業の成長にとって欠かせない「マイルストーン」になった。

 1990年代は「ペンティアム」シリーズで中核的な役割を果たした。2003年にはノートブック型パソコン向けの低消費電力タイプの「セントリーノ」も大ヒットし、2005年に業績不振だったインテルを救った。

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