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NBAの新星は「異文化に閉じる扉」を叩き続ける

  • 林 壮一

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2010年1月14日(木)

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 身長2メートル11センチのジョアキム・ノアは、その長い足を窮屈そうに折り曲げながら、フランス語でインタビューに答えていた。質問する青い目の記者は、ノアに会うためにパリからシカゴへやって来た。

 シカゴ・ブルズのユニホームを着るようになって、3シーズン目を迎えるジョアキム・ノア。今期はセンターの中心選手に成長を遂げた。

 フランス人記者のインタビューが終了し、番記者たちとの囲み取材を終えた彼は、私が前日にリクエストした個別インタビューを承諾してくれた。

 人懐こい瞳に、父親の面影を感じる。ジョアキム・ノアは一見ホワイトに見えるが、彼の実父はカメルーンの血を引くブラックである。父であるヤニックは、今でも「シングルスでグランドスラム大会を制した、2人目の黒人テニスプレイヤー」と評されることが多い。

 1983年のフレンチ・オープンを制したのは、前評判が高かったジョン・マッケンローでも、イワン・レンドルでも、ジミー・コナーズでもなく、褐色の肌にドレッドロックス・ヘアが目を引く第6シードのフランス人、ヤニック・ノアだった。

 ヤニックは、1960年にフランス、セダンで誕生した。カメルーン人の父親は、フランスでプロサッカー選手として活躍しており、母親は教職に就いていた。ヤニックが3歳の時、父親はプレー中に選手生命を断念しなければならない大怪我に見舞われ、一家でカメルーンに移住する。

グランドスラム大会初の黒人優勝者に認められた父

 父の祖国でテニスと出会ったヤニックは、トップ選手だったアーサー・アッシュに認められ、母国フランスでテニスの英才教育を受ける。このアーサー・アッシュこそ、黒人として初めてグランドスラム大会で優勝した人物である。

 10代にして頭角を現したヤニックは、23歳で世界一を経験。30歳まで第一線で活躍した。現役時代の世界ランキング最高位は3位である。1991年と翌年には、フランスナショナルチームのキャプテンとしてデビスカップに出場している。

 そのヤニックが最初の妻との間に授かった長男が、ジョアキムだ。後にシカゴ・ブルズで背番号13番を着ける生命は、父がフレンチ・オープンで優勝者となった翌々年の2月にニューヨークで産声を上げた。

 如何なる国籍の親を持っていても、アメリカで誕生した生命には必ず当地の国籍を与えるのが合衆国である。ジョアキム・ノアは、プロテニスプレイヤーの父と、ミススウェーデンに選ばれた美貌の母親との間に宿った生命であった(ジョアキムの誕生後間もなく、両親は離婚している)。

 ジョアキムは、デニムのジャンパーを羽織りながら、笑顔で言った。

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「日本人にも親父のことは知られているの?」

 私は答えた。

「少しでもテニスに知識のある人なら、間違いなく覚えているだろうね。ヤニックがフレンチ・オープンで勝った時には大きく報道されたし、専門誌の表紙を飾ったこともあるから」
「それは嬉しいな」
「お父上の試合はよく見ていた?」
「小さい頃ね」

 私は質問した。

「あなたもテニスは出来るんでしょう?」

 ジョアキムは微笑みながら応じた。

「多少はね。でも、大した腕前ではなかった。OKってレベル。決してグレイトじゃないよ」
「やっぱり、父上から教わったの?」
「うん、幼い頃に。プレーする楽しみも覚えたけれど、いつも親父と比較されたから、それが苦痛でさ。結局、他のスポーツを選んだんだ」

 NBAのスターになりつつあるといっても、初々しさの残る青年である。

「サッカーは考えなかったの? お祖父さんも、かなりの選手だったんでしょう」
「育った街がニューヨークだったから。至るところにバスケットコートがあったし、物凄く盛んでね、自然とのめり込んでいった。バスケットボールという競技が文化になっている街だからさ」

アスリートの成功の鍵は、自分を信じて、努力を止めないこと

 ジョアキムが正式にチームに加入したのは10歳の時だった。

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「僕は3歳から12歳までをフランスで過ごしているんだ。アメリカンスクールに通っていた。そこでバスケットを齧って、またニューヨークに戻って来たら、市民全員が注目しているような感じでね。コートを走るのが楽しくて楽しくて。でも、バスケットを愛してはいたんだけど、最初は背も小さくて並の選手でしかなかったんだ」

 彼が才能を自覚したのは、高校時代だそうだ。

「他のNBA選手と比べると遅いんじゃないかな。父から『アスリートの成功の鍵は、自分を信じて、努力を止めないことだ』ってアドバイスされたので、誰に何を言われても、ひたすら前を向いてプレーして来た自負はある。こうしてブルズの一員になれたことを誇りに思っているよ」

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