「どうだった、Aの母親?」
私の顔を見るなり、テーラーが訊ねてきた(前回「『クレイジー』な母親との意外な会見」参照)。
「思ったより普通の人に思えたよ。彼女自身も、大学に復学したい、一緒に学びましょうよ! ってAの手を握っていた」
テーラーは左右に首を振りながら言った。
「ショーね。他者に同情されたい、あるいは“いい母を演じている”だけよ」
そうかもしれない。数時間の面談で、人間の素顔が見える筈もない。だが私は、努めて明るく話した。
「Aはいつになく真剣な表情をしていたから、少しはこちらの気持ちが通じたんじゃないかな」
「そうね。彼が一番長い付き合いだし、あなたとの別れるのは辛いでしょう」
実は私は、13年半過ごしたリノを離れることを決めていた。
最近下した決断ではない。およそ1年前に決めた。様々な理由が挙げられるが、最も大きな要因は、物書きとして米国デビューを果たせなかったことにある。
人生を賭けた本の、米国出版に挑んだが
2006年9月、私は10年という歳月のみならず、ライター生命を賭けた1冊の本を刊行した。『マイノリティーの拳』(新潮社)がそれである。
日本人の読者に、黒人ボクサーの話など売れる筈がない、と多くの人に揶揄されながらも、情熱だけで走り抜いた1冊だ。
「この本を出すまでは死ねない」。
「これが世に出ないと、自分の人生は無になってしまう」。
そう断言しながら、自分と4名の世界チャンピオンとの絆を描いた。発売から5年近くになる今も、これ以上己を燃やすことのできる題材には、もう2度と出会えないのではないかと本気で考えている。
『マイノリティーの拳』は、発売から今日までに5700冊が売れた。版元には「ベストセラーとまではいきませんでしたが、成功といっていいでしょう」と言ってくれる編集者もいる。が、人生を賭けた勝負としては、泣かず飛ばすといったところだ。10年間を費やしながら、5700冊の売り上げでは、家族を養っていけない。その現実が、私に重くのしかかっている。
それでも私は、全身全霊を注いだ〈魂の1冊〉を諦めたくなかった。なので、すべてを英訳し、アメリカで出版するべく奔走した。英語圏で読者を獲得すれば、道が開けると信じたのだ。
結果は惨敗だった。
合衆国で本を出す場合、まずエージェントと契約を結ばなくてはならない。エージェントを通さなければ、出版社までたどり着かない仕組みとなっている。恥を曝してここに記すが、私を“買ってくれる”エージェントなど、どこにもいなかった。
大学で単位を得たり、マイナー雑誌で記事を発表するくらいの英文は書けるようになったが、ネイティブスピーカーに売れるだけの物を書く能力は、13年半努力しても、ついに身に付かなかった。
13年半という歳月が長かったのか、短かったのか、今となっては分からない。ただ、ひとつ言えるのは、私はもう余力がないというところまで走った、ということである。周囲にいる友人たちは「もう10年頑張ってみろよ」と励ましてくれるが、これ以上続けてしまうと、家族を飢え死にさせることになる。
私は己の人生に勝てなかった−−。
こんな私でも地域に貢献できることがあるようだと取り組んできたのが、Opportunity Schoolにおけるボランティア教師だった。
飢えを知る子供たちのために。しかし限界は訪れた
ボクサーとは、哀しい生い立ちの男が多い。ほとんどがスラムで赤貧に喘ぎながら育った過去を持つ。彼らは〈本当の飢え〉を理解しているから、メンタルが強い。そのうえ、純粋で繊細だ。とはいえ、無名のまま消えていく人間の方が圧倒的に多いのだ。今日も、貧民街の暖もない部屋で生きるしかない元ファイターが何人も蠢いている。
足掻きながら、もがきながら生きるファイターたちは、敢えて述べるなら私の同類だった。だからこそ、分かり合えた。
2005年の晩夏に高校教師としてスカウトされ、教壇に立った時、荒んだ生徒たちの瞳に、私はゲットーの住民と同じ叫びを見た。前任者は簡単に職場を放棄してしまったが、私は、「この子たちを放っておけない」と思った。
Opportunity Schoolの教師に「力を貸してほしい」と言われた時も、同じ気持ちになった。だが、たいしたことも出来ぬまま、終了の日が近付いてきてしまった。
今の私には経済的、そして時間的な余裕が無さ過ぎる。ボランティアをする前に、日銭を稼がねば家計が回らなくなってしまった。
ジョージ・フォアマンのように、私財を投げ打って問題児を集めることもできなければ、Opportunity Schoolを職場として常勤になることも叶わない。
お気楽なボランティアしか務まらない立場が、自分の人生を象徴しているようで空しくなる。どんな世界も、志だけで飯は食えない。こんな私が人助けなど、チャンチャラ可笑しい。
私はハーパーに告げた。
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