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「虎門銷烟」・・・中国、屈辱の「近代」

その1.広東省東莞市

  • 舩橋 晴雄

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2011年7月12日(火)

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■アヘンの海

 香港ランタオ島の空港から東莞虎門鎮行のフェリーは、ターボジェットの双胴船だった。虎門鎮までおよそ80分。

 筆者はちょうど30年前、1981年に香港から広州まで船で行ったことがある。中国本土への初めての旅だった。その時の船は、艀を少し大きくしたような改造貨物船だったことを記憶している。

 摩天楼の密集する香港と、中山記念堂から一望の下に街全体が見下せる平べったい広州との対比に、「資本主義香港」と「社会主義中国」の落差を感じたものだった。

 中国が本格的な改革・開放政策に踏み切ったのは、その後のことである。鄧小平のいわゆる「南巡講話」は、1992年の春節の前後に行われている。もとより1980年より「経済特区制度」が設けられ、深圳 、珠海、汕頭、廈門の四地区が指定されていたが、それらはいわゆる加工貿易型の「特区」でしかなく、またその試みも始まったばかりであった。

 今この珠江、珠海の海道は、ひっきりなしにコンテナ船が行き交い、陸地には巨大なガントリークレーンが林立する、最も活気に溢れた中国経済の心臓部の一翼となっている。

 フェリーはしばらく進むと茫洋たる大海に出る。ここを零丁洋という。

 19世紀の初頭、1820年頃、ここには何十艘もの躉船(とんせん)が浮かんでいた。躉船とはアヘンの貯蔵船である。背丈の高い、現代でいえば自動車輸送船のような格好をしていた。貯蔵船だから船足はノロい。よくみると躉とは、萬(万)に足と書くから、百足より遅い訳だ。当時、インドのベンガル地方などで栽培され精製されたアヘンは、イギリス東インド会社の商船で運ばれ、この零丁洋の躉船に積み替えられた。広州の夷館(外国商館)で支払いを済ませたアヘンの密輸業者は、取締官憲がとても追いつけない快速艇(「快鞋=クワイシェ」という)を傭って、領収証と引き換えに躉船からアヘンを受取るのだ。往時、その「快鞋」が無数に往来していた。

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 中国へのアヘン流入が激増し、阿片吸飲の習が蔓延し、その害毒が次第に国家を揺るがす問題となっていくのは、19世紀に入ってからである。清朝政府は早くも雍正年間、1729年にはアヘンの禁令を出しているが、対応の不徹底や官僚の腐敗などにより実効が上がらず、いたずらに問題を深刻化させてきた。

 そもそも中国のアヘン輸入が激増した背景には、当時の貿易構造の変化があった。

■アジアの三角貿易

 発端は、イギリスにおける喫茶(紅茶)の流行である。18世紀の中頃から急速に普及したという。

 この茶をイギリスは大量に中国から輸入していた。一方、中国に対しては売るものがない。この片貿易是正の戦略商品としてアヘンが登場してくる。当時、植民地だったインド、ベンガル地方を中心として大規模な罌栗の栽培を行い、そこからアヘンを採取して輸出商品とするのである。

 「商品化」に当って、イギリスは二つの工夫を凝らした。一つは商品化の常道ともいえるが、品質管理の徹底と、品質のブランド化及びそれに応じた価格政策である。今一つは、斬新な消費法の提案である。従来インドではアヘンを薬として茶に混ぜて飲んでいたのだが、それではアヘン特有の苦みや臭みを免れなかった。それに対する新しい消費法とは、アヘンを火で炙ってキセルで煙を吸飲するやり方だ。

 これが中国人の嗜好にあった。以降、加速度的に中国のアヘン輸入が拡大していく。

 これによって、アジアの三角貿易が完成した。インドから中国へアヘン、中国からイギリスへ茶、イギリスからインドへは綿織物というトライアングルの貿易構造である。いうまでもなくこの構造で旨い汁を吸っているのはイギリスである。

 アヘン、麻薬の害毒はいうまでもない。その吸飲の快楽の中で、人はその身体と精神を蝕み、遂には廃人となるまでそれを求めて止まない。そして家族や社会や国家の腐朽・解体につながっていく。清朝でも心ある人々は早くからその恐ろしさに警鐘を鳴らしていた。

 それに加え、アヘンの輸入量が激増するにつれ、茶との貿易バランスが崩れ、中国から大量に銀が流出するという事態が起こった。それがまた国家財政の破綻を、ひいては社会不安を招来することになったのである。

 当時、課税標準は銀によって定められていたが、実際は日常的に流通している銅銭によって納税が行われていた。銀が流出するということは、中国内の銀の価値が高騰することであり、結果、銅銭による納税額の急増を意味するのである。何時の時代でも、苛税は国民の怨嗟の的となり、一揆や暴動の引き金となり、政権の安定を揺るがすこととなる。当時の清朝政府が最も憂慮したのが、まさにこの点にあったのである。

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