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「演陣斬姫」・・・兵法家の経世論

その4.湖北省荊州市

  • 舩橋 晴雄

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2011年8月23日(火)

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■孫武と武蔵

 蘇州(江蘇省)郊外、穹隆山の山中に、春秋末期の兵法家孫武が隠捿してその書『孫子』をまとめたとされる場所がある。深山の中腹に小さな台地があり、芽葺きの小家が建てられている。深い木立ちに囲まれ、思惟を反芻し、紡ぎ出すのに、人里とは十分の距離と静閑さを保った場所である。

 戦国末期から江戸初期を生きた武芸者宮本武蔵も、その生涯の末年、熊本城西の金峰山霊厳洞に籠って、その『五輪書』を書き上げた。ここもまた僻遠幽邃の地である。

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 孫武にしても武蔵にしても、その数多くの実戦体験の中からつかみ取ったものを思想として結晶化させ、文書に書き残すことによって、現代のわれわれにも大きな影響を与え続けている。後に触れることとしたいが、この芽葺きの小家と剥き出しの洞窟との差は、そのまま孫武と武蔵との差を象徴しているようにも思われる。

 孫武の生涯は、古代の深い闇の中に隠れている。司馬遷の『史記』には、孫武は斉の国の人であることと、呉王闔盧(こうりょ)の軍師となるきっかけとなった「演陣斬姫」のエピソードが記されているに過ぎない。

 これは宮中の美女180人を使った模擬軍事演習で、孫武はこれを2隊に分け、闔盧の愛姫2人をそれぞれの隊長に任命し、合図を決めて演習を行った。しかし、孫武が何度も命令を発しているのに、女達は兵隊ごっこに興じているつもりで、その命令を真面目に聞こうとしない。そこで孫武は、女達の眼の前で、女達が命令通りに動かないのは隊長の責任だとして、闔盧が押し止めようとするにもかまわず竉姫2人を斬殺すると、以後部隊は咳ひとつ上げず、整然と合図通りに動いたのである。

 いささか話が出来すぎているようにも思われるエピソードだが、軍の統率とはそのようなものであろう。しかし、孫武の真骨頂はこのような実戦での部隊の運用といったレベルのものではなく、より広く大きなものであったように思われる。

■孫武会心の戦い

 孫武自身、「善く戦う者の勝つや、智名もなく、勇功もなし」(形篇)としているくらいだから、自らの武功を誇ったり、それを得々と書き残したりはしていない。

 しかし、その会心の戦いは、楚の都域郢(えい)の攻略戦だったのではないだろうか。紀元前506年の冬のことである。

 楚は、長江中流域を根拠とする春秋の大国である。特に第22代荘王の時代がその最盛期で、荘王は春秋五覇の1人に数えられている。

 一方の呉は、その国祖太伯こそ周王の兄であったが、後には会稽(紹興)地方の一地方政権となっていた。これを強国としたのが闔盧であり、その覇業を助けたのが、楚の亡臣伍子胥と孫武である。

 春秋末期の中国世界にあっては、呉が楚を破ったことは、日清戦争で日本が清を破ったようなものだったのである。

 楚都郢は、現在、湖北省荊州市であり、呉都姑蘇は、江蘇省蘇州市である。長江中流から下流まで、この両都は、直線距離でもおよそ800キロメートル離れている。呉軍の主力は長江を遡上していったのではなく、蘇州から北上し、准南の湖沼地帯を渡り、准河を西進し、現在安徽省と湖北省の境となっている山岳地帯を抜けて、北側から荊州を目指したようである。その行軍距離は直線距離の3~4倍に及ぶだろう。

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