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大事なのは「のめり込みすぎないこと」

ウシオ電機会長 牛尾治朗氏に聞く(後編)

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2016年8月23日(火)

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「高校時代は医者になりたかった」と言うウシオ電機の牛尾会長。東京大学を卒業後、旧東京銀行に入り、米カリフォルニア大学バークレー校大学院に留学するなどしていたが、経営者だった父親が病に倒れて帰国。父の急逝に伴い、家業を引き継ぐ形でウシオ工業に入社した。赤字と従業員を抱えたマイナスを、どうプラスに変えていったのか。

実は経営者になるつもりはなかったとお聞きしています。

牛尾:ウシオ電機はもともと祖父が築いた事業を基礎としています。呉服の行商から身を起こした祖父は大阪へ出て、米相場で資金を得た。その資金で公益事業へ進出し、姫路銀行(のちの神戸銀行で、現三井住友銀行)と姫路水力電気(山陽配電を経て現中国電力・関西電力)、姫路瓦斯(現大阪ガス)の経営権を持つようになったんです。

 戦争の影響で電力再編が行われ、親父は公職追放になり、繊維、不動産、電機部門を持つ牛尾工業を設立することに。90歳まで生きるつもりでおった人ですから、こんな人と一緒に仕事をしたら大変だと思い、私は次男ですから「経営者になんか絶対にならんぞ」と宣言していたんだけれども、親父が59歳で急逝し「帰ってこい」となった。

 戻ったとき、会社は大赤字でした。けれども、神戸銀行は貸すわけね。株の4分の1ぐらい持っているオーナーの会社ですから。親父が死んで、今なら銀行がどこでも引き取ってくれるし、それなら借金を背負わなくても何とかなると主張したんだけれども、兄弟は「3代目で会社を売るなんてとんでもない」と反対するわけ。それで3つあった事業のうちの電機を引き受けた。それが独立して、今のウシオ電機になりました。

牛尾治朗(うしお・じろう)氏
1931年兵庫県生まれ。53年東京大学法学部卒、東京銀行入行。米カリフォルニア大学大学院留学を経て、64年ウシオ電機を設立し社長に就任。79年会長に就任。経済同友会代表幹事、内閣府経済財政諮問会議議員などを歴任(写真:菊地一郎、以下同)

従業員200人以上、しかも本体からの含み損を抱えての船出だった、と。

牛尾:そうそう。親父が死ぬ前から電球がダメだというのは分かっていました。だから、なるべく特徴のある技術を持とうと考えました。それはいまだに変わらないですね。

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