ドイツは航空産業を「グライダー」で蘇らせた

オリンポス・四戸哲社長インタビュー(その2)

  • 松浦 晋也
  • 2018年03月09日

 日本で唯一の民間機専業、たった8人で航空機の設計製造を手がけるオリンポスの四戸哲(しのへ・さとる)社長は、MRJ苦闘の原因を、遙かな昔、冷戦体制の中で、米国が日本に無制限に流した最新技術情報が「日本の航空エンジニアを“中毒”させた」ことにあると読み解いた。

 しかし、それは同じ敗戦国だったドイツでも同じことがあったのではないか? なのにドイツはフランスと並びエアバスの主要国として航空産業を着実に育成している。

 敗戦後の日本とドイツ、航空産業の道が分かれたのはどこだったのだろう。

(前回はこちら

松浦:気になるのが、同じく敗戦国であったイタリアとドイツ、中でもドイツの戦後の経緯です。ドイツも連合国から航空機の研究開発や製造を禁止されましたが、1950年代に日本と同じく航空機開発に復帰しました。でも、その後が違う。へなへなとなってしまった日本と対照的に、ドイツは航空機産業を着実に育成して、現在ではフランスと並んで旅客機のエアバス・ファミリーの設計に参加し、かつ主要生産国になっています。いったいこの違いが発生した原因はどこにあったのでしょうか。

四戸:まず、第二次大戦以前からドイツの航空宇宙技術は世界的に見てずばぬけて進んでいた、という事実があります。実際、第二次世界大戦から冷戦期にかけての米国の航空技術の躍進には、かなりの部分、ドイツからの移住者が関わっています。たとえば、太平洋戦争末期に、日本を爆撃しに飛んでくるB-29を護衛したノースアメリカンP51ムスタング戦闘機ですが、設計者のエドガー・シュミードはドイツからの移民です。

四戸 哲(しのへ さとる)有限会社オリンポス代表取締役。1961年、青森県三戸郡生まれ。小学生時代に見た三沢基地でのブルーインパルスのアクロバット飛行を見たことが航空エンジニアを志すきっかけとなった。学生時代のヒーローは航空エンジニアの木村秀政氏。高校卒業後に木村氏が教授として在席している日本大学理工学部航空宇宙工学科に入学し、日大航空研究会に所属。卒業後、日本には極めて珍しい、航空機をゼロから設計する会社としてオリンポスを創業。木村氏を顧問に迎える。以後、軽量グライダー、メディアアーティスト八谷和彦と、『風の谷のナウシカ』に登場する架空の乗り物「メーヴェ」を模した一人乗りのジェットグライダー(こちら)の機体設計・製作を担当。国産初の有人ソーラープレーン「SP-1」、「95式1型練習機(通称・赤トンボ)」の復元プロジェクト、安価な個人用グライダーの開発・製造を行っている。

松浦:そういえば、プロペラからジェットへの航空機高速化の過程で、まさに技術的な核心となった後退翼の理論も、ドイツが先行していましたっけ。米国はドイツから後退翼の技術的資料を入手して、F-86戦闘機とかB-47爆撃機を開発した。

四戸:遷音速から超音速にかけての空力的ノウハウも、クルト・タンクなんかが先行して設計で実践しているわけですよ。

松浦:そのような実践を支えていたのが、ぶ厚い系統的な空力実験データの蓄積で、ドイツは20世紀初頭にルートヴィヒ・プラントルという流体力学者が出て、近代的な風洞を発明してゲッティンゲン大学で組織的な研究を行っていますよね。ゲッティンゲン翼型というのは、今も空力の基礎データとして使われていますし。

四戸:そうです。実はゲッティンゲン大学での翼型の研究は、まだ離散的で連続的なデータを蓄積するには至っていなかったんです。系統的空力データの重要性に気が付いて、国費を投入して組織的にデータ蓄積を押し進めたのが戦前の米国です。

松浦:ああ、NACA。

四戸:米国は1920年代以降、アメリカ航空諮問委員会(NACA)という国家組織が、翼型をはじめとした空力の系統的な実験を実施して、結果を誰でも読めるレポートにまとめていったんです。ですから、軍用機を開発する場合も、日本の技術者は実際に飛ばして試行錯誤で解決するしかなかった問題を、米国の技術者はNACAのレポートを読むことで解決することができました。これなんかも、ドイツからの刺激が米国で花開いた結果だったんでしょう。ドイツが米国に与えた影響は非常に大きかったんです。

B-29:米ボーイング製大型四発爆撃機。1942年初飛行。第二次世界大戦で日本本土爆撃に投入され、日本の主要都市を焦土と化した。広島と長崎に原子爆弾を投下したことでも知られる。

B-29(奥の機体)。手前にあるのはチャック・イェーガーが操縦して世界で初めて音速を突破したベルX-1実験機(前回参照。画像:NASA)

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