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まさかの話~パフォーマンスを妨げる余計な記憶

2016年9月6日(火)

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リオデジャネイロオリンピックで「まさか」を体験した内村航平選手(写真:田村翔/アフロスポーツ)

 ある政治家が「人生には、上り坂もあれば下り坂もあります。もう1つあります。『まさか』という坂があります」と言われて「まさか」の坂が流行語になったことがある。

 つい先日終わったばかりのリオデジャネイロオリンピックのテレビ中継で「まさか」を目撃した。男子体操団体戦の予選での日本チームの戦いぶりである。誰もが世界ナンバーワンと認める内村航平選手が鉄棒で落下し、他の選手も連鎖するかのようにミスを重ねていった。前回のオリンピック直後から4年間にわたってこの日のために繰り返し、繰り返し、練習を重ね、完璧な演技ができるほどに仕上がっていたはずである。

 メディアは、このミスの原因の1つとして、競技開始が午前10時半と起床が早過ぎたことを挙げているが、それは他のチームにも同じ条件だったはずだ。試合前、選手達は普段通りにやれれば金メダルを取れると考えていたという。

 しかし、テレビの画面で見る限り、日本選手は表情が硬く、コチコチになっていたように見えた。内村選手は予選終了後「これがオリンピックの舞台というものです」と語っていた。オリンピックの舞台には「魔もの」ならぬ「魔さか」が棲んでいたのかもしれない。

十八番で大失敗した落語家

 ある落語会のことである。当代の名人とも言われている落語家が、伏線として入れておかなければいけない大事な場面をうっかり飛ばしてしまい、その後の話がまとまらなくなってしまった。この日、本題とまぎれるようなマクラを振り過ぎていたので、これで話の筋が混乱してしまったのではないか、と私は思っていた。ところが、後日、この落語会の関係者に会う機会があり、「あの時」のことを尋ねてみたら、あれは師匠の稽古のし過ぎが原因だというのである。

 関係者筋によれば、あの話は師匠の十八番の話なのだが、例の落語会には師匠ご自身、大いに期するものがあり、基本に戻って何回もおさらいをしていたらしい。落語会の数か月前から寄席の高座でも何回も試していた。勿論、そうした高座では上々に仕上げられ、落語会には準備万端怠りがなかったはずである。大名人にしてあのようなミスである。普段ではとても考えられないようなことなので、聞く側にとっては、この上ないレアものとなった。この日の落語ファンは、歴史的な場に居合わせてよかったなぁーと感慨にふけることはあっても、師匠を責める気なんぞ微塵もなかったはずである。

 「まさか」の話は身近でも起きる。私が産総研の理事長に就任したてのころのことである。産総研のあるシンポジウムで、私が冒頭挨拶することになっていた。司会は産総研の職員が担当したのだが、司会者にとっては新理事長である私の名前は読みにくい上、私との面識も少なかったのでシンポジウムの開始前からとても緊張している様子だった。彼は私の名前を何度も口に出して滑舌を整えていたのだそうである。

 そして、いよいよシンポジウムが開始され、私を紹介する段になったのだが、この司会者はあれほど練習していたのにも関わらず、何と本番では私の前任者の名前を紹介したのである。本人はこのことに全く気付かず、プログラムは何事もなかったように進められていった。幸い、後で登壇された来賓の方が上手に訂正してくださり、会場がドッと沸いた。理事長就任時の忘れられない思い出である。

 記憶は脳の中の「海馬」が担っている。新しい記憶は一旦海馬に貯えられ、その後再生されて大脳皮質に転送される。大脳皮質は、海馬からの記憶を、時間をかけて再生し、記憶をしっかりと固定する。コンピューターの世界では、新しい情報は取り敢えず半導体メモリーに蓄え、記録量が増えてきたら、ハードディスクのような大容量記憶媒体に移す。人間の脳も同様のメカニズムで記憶をしていくらしい。

 従って、記憶を定着させるためには、記憶を再生してそれを固定化するプロセスを十分に確保することが必要となる。記憶すべきことを、のべつ幕なしに脳内にとどめていては、却って固定化の妨げになってしまうのである。あのシンポジウムでは、司会者が前日から何十回と私の名前を唱えるよりも、2~3度つぶやいてみて、後は寝てしまった方が良かったのである。試験前日なら、一睡もせず記憶に励むより、ある程度覚えたら、布団に入りぐっすり眠って固定化を待つ、という戦略と同じである。

コメント4件コメント/レビュー

 私もヒヤッとする思いは無数にあります。筆者のような鍛え抜かれた方でもそうなのかと伺うと、多少は自分への慰めになります。
 が、やはり周到に練習をすることが基本だと思います。「魔さか」は準備状況とは全く独立した事情でやってくるのでしょうが、練習をし尽していればこそ心の余裕ができ、不測の事態にも当意即妙に対応できるのではないでしょうか?(2016/09/06 20:00)

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「まさかの話~パフォーマンスを妨げる余計な記憶」の著者

中鉢 良治

中鉢 良治(ちゅうばち・りょうじ)

産業技術総合研究所理事長

1977年、東北大学大学院工学研究科博士課程修了。同年、ソニー入社。2005年、同社取締役代表執行役社長に就任。2013年より現職。

※このプロフィールは、著者が日経ビジネスオンラインに記事を最後に執筆した時点のものです。

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記事のレビュー・コメント

いただいたコメント

 私もヒヤッとする思いは無数にあります。筆者のような鍛え抜かれた方でもそうなのかと伺うと、多少は自分への慰めになります。
 が、やはり周到に練習をすることが基本だと思います。「魔さか」は準備状況とは全く独立した事情でやってくるのでしょうが、練習をし尽していればこそ心の余裕ができ、不測の事態にも当意即妙に対応できるのではないでしょうか?(2016/09/06 20:00)

頷かされるお話でした。私はいろんなスポーツをかじりゴルフが目下の趣味です。ゴルフは反復練習主体の典型的なスポーツですが、「下手を固める」と言う言葉があり、悪い練習を重ねると、上達を妨げると戒めています。良かれと思われる練習の際にも、失敗をすまいと意識すると、行動と思考が強く結びついて記憶されてしまい、その失敗行動を練習して覚え込んだような効果が生まれてしまいます。また、バンカーなどボールを打ってはいけない方向を強く意識すると、逆にそちらへ打ってしまう事が起きたりします。スキーやバイクでも、危ない方向に目をやると、そちらに向かってしまったりもします。アマチュアスポーツではいまだに根性論や精神論が幅を利かせていますが、精神と身体のつながりをきちんと理解して正しく処するメソッドが普及すれば、スポーツの上達も早まるように感じました。千本ノックなどは失敗に失敗を積み重ねるのですから、悪影響しかないのではと思います。それを乗り越えたところまで行けと言う理屈なのかもしれませんが、子供などそれでは楽しめないですね。(2016/09/06 10:54)

ここでは記憶とその再生について「条件反射的に記憶したものは、条件が変われば消失してしまう」と言う視点で書かれています。確かにこれは「まさか」の1因となる事は納得できます。
別の視点でもう1つあると思いますのが「瞬時のショート(短絡)」現象です。記憶したものがそのまま再生できると言うのは稀有でしょう。この再生の途中で脳には別の情報が視聴覚や思考でノイズが入り、完全な再生を阻害する事が有るわけです。
そのノイズを瞬時に別の回路に流して、再生を続けられないと「まさか」が起こるわけです。「○番マイク」のケースで、同じような会場で発言者を指名をするのに「○番テーブル」を使う頻度が高としたら、類似した状況で「テーブル」と言うのが当たり前と言う脳からのノイズが入ってきたと考えられます。
司会者や発表者は(え~と)など無駄な繋ぎをを出来るだけ使わないようにしているので、こう言ったノイズが発生した場合に、間がとり難いと思っているのもプレッシャーになっています。
落語を聴いていると、言い間違いやすい部分では、意識的に(え~)を使っているのが分かります。体操チームの場合はこのような間を取れるかは疑問ですが、気持ちの上で完全再生に固執せずに気持ちの中で間を持つことでも変るかもしれませんね。(2016/09/06 10:24)

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