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「和のもてなし」満載、新しい料亭に行ってみた

2016年4月15日(金)

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 高級で敷居が高く、密談や接待の場というイメージが強い料亭。だがバブル崩壊後、多くの料亭が時代の波に翻弄され消えていった。一方で、訪日観光客の増加による日本文化の見直しを追い風に、新たな経営スタイルで個人客など市場の開拓に力を入れる料亭もある。新しい料亭の魅力と可能性を探る。

料亭「赤坂浅田」のお出迎え。金澤・浅田屋の土蔵入口の意匠を凝らした玄関、屋号の「くずしまんじ」を染め抜いた炭黒の大暖簾をくぐると、非日常の空間が広がる(画像提供:すべて「赤坂浅田」)

 新橋や赤坂の料亭というと高級で格式が高く、一見さんはお断り。政財界の密談や接待の場というイメージがいまだに強く、庶民とは縁遠い場所と思いがちです。しかしバブル崩壊後、企業の接待等の需要は減少し、多くの料亭が姿を消しました。東京六花街の一つ、新橋(東銀座から築地エリア)には現在、日本三大料亭に数えられる「新喜楽」や「金田中」など8軒を残すのみ。赤坂、芳町(日本橋人形町)、神楽坂、浅草、向島なども同様に数軒を残すまでに減少しています。

 最近では2014年、老舗料亭のなだ万がアサヒビールに買収され話題となりました。なだ万は天保元年(1830年)初代灘屋萬助が大阪に俵商会を創業。明治期「灘万楼」が西園寺公望など政財界や文人からひいきにされるなど名料亭として名を馳せましたが、戦後経済の中心が東京へ集中する中、次第に大阪での経営が厳しくなり1974年に東京へ進出。ホテルニューオータニに「なだ万本店山茶花荘」を開きました。そこから40年、再び時代の波にのまれ、大企業の傘下となりました。近年はデパート等で惣菜や弁当を売るなど、ブランドを安売りする印象もありました。

 そんな中、ブランドを棄損することなく業態を進化させようとする料亭もあります。訪日観光客の増加などによる日本文化の見直しも追い風に、新たな経営スタイルでこれまでにない客層と市場を獲得、飛躍を見せる新たな料亭が現れています。今回はそんな料亭の今を取材。人生初、赤坂の料亭に足を踏み入れた超庶民の筆者の体験レポートとともに、日本人として知りたい料亭の魅力と可能性をご紹介します。

赤坂浅田のお座敷。雪見障子から差し込む光と照明が作り出す、料亭ならではの凛とした空間。正面に見える床脇の「刳形(こがた)」の棚が印象的

 最初に、割烹と料亭の違いとは何でしょうか。どちらも料理屋を示す言葉ですが、一番大きな違いは料亭が花柳界に属し、芸者を呼ぶことができることです。具体的には各花柳界の組合、新橋なら東京新橋組合、赤坂なら東京赤坂組合に所属している店となります。

 芸者の始まりは江戸時代、吉原の遊郭で遊女が芸を磨くようになったところからとされていますが、料亭を含めた花柳界のシステムが確立されたのは明治以降。花街は元々芸者が所属する置屋、待合、料理屋の三業種で形成され、「三業地」とも呼ばれました。それが戦後、待合と料理屋の機能を備える「料亭」が誕生。置屋と料亭、それをつなぐ見番というシステムが確立されました。

 また東京都料理生活衛生同業組合によれば、料亭の起源は18世紀後半、「御留守居茶屋」と呼ばれた店が各藩の御留守居役により幕府の高官や他藩との接待、折衝に利用された頃に始まるとされています。

 一方、農林水産省は「日本食の歴史」で、料理茶屋・高級料亭の系譜を次のように記しています。一部抜粋すると「京都では近世初期に町中に料理茶屋が誕生、江戸ではやや遅れて元禄年間に市中各所で出現した。料理文化が最も発達した文化・文政年間には高級料亭が登場。19世紀の料理本『料理通』を執筆した栗山善四郎が営む高級料理屋『八百善』は江戸で大繁盛を極めた。八百善には人気を誇る文人や画家のほか、幕府の高級役人から地方の富裕層までがしばしば訪れた。八百善は値段が高いのも並はずれていたが評判は高く、『料理通』の出版との相乗効果もあり、高級料亭として人気を博した」

 これを見ると江戸時代も今も、人の行動やヒットの法則は不変なのだと改めて感心します。その後「1925年北大路魯山人は旧来の遊興的要素の強い料亭のイメージを一新、料理を盛る器や食事空間のしつらえにこだわった会員制の高級料亭・星岡茶寮を発足。美食の提供に最善を尽くした。また湯木貞一は吉兆を開き、日本料理に牛肉やイクラ・スモークサーモンなどを用いるとともに、器を取り入れた松花堂弁当を考案」するなどし、現在に続く「和食」や「料亭」文化の完成に至りました。

 星岡茶寮は1884年(明治17年)、要人の会合や上流階級の交流の場として、現在は国会議事堂や首相官邸がある永田町2丁目に鎮座する日枝神社境内の小高い丘に建設されました。しかし大正時代に経営不振に陥り、1923年の関東大震災が追い打ちとなって1925年、魯山人らに委ねられました。1945年には空襲により焼失。昭和初期「星岡の会員にあらずんば名士にあらず」とまで言われた名料亭は、東京五輪を控えた1963年に「東京ヒルトンホテル(現キャピトル東急ホテル)」へ姿を変えました。

 星岡の名の由来は、そこが星の眺めがきれいな景勝の地「星ヶ岡」と呼ばれたことによりますが、それも今は見るのが難しい時代となりました。その後、高度経済成長を遂げた日本。80年代後半に起きた空前のバブル景気は90年代初めには崩壊し、以降「失われた20年」ともいわれました。時代の変化に料亭はどのように対応してきたのでしょうか。

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「「和のもてなし」満載、新しい料亭に行ってみた」の著者

水津 陽子

水津 陽子(すいづ・ようこ)

合同会社フォーティR&C代表

経営コンサルタント。合同会社フォーティR&C代表。地域資源を活かした観光や地域ブランドづくり、地域活性化・まちづくりに関する講演、コンサルティング、調査研究、執筆等を行っている。

※このプロフィールは、著者が日経ビジネスオンラインに記事を最後に執筆した時点のものです。

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