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ソフトランディングを目指した福井藩主松平春嶽

福井藩と徳川宗家の微妙な関係

  • 安藤 優一郎

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2018年3月23日(金)

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(前回、桑名藩主「松平定敬」はこちら

 最終回は徳川一門でありながら、高須4兄弟の徳川慶勝とともに明治新政府の一翼を担った福井藩主松平春嶽(慶永)を取り上げる。

政治総裁職に就き、一次は幕政に関与した松平春嶽(写真:アフロ)

 文政11年(1828)、春嶽は田安徳川家当主斉匡の子として生まれた。慶勝よりも4才年下にあたる。なお、慶永が実名で春嶽は号だが、一般に知られている春嶽で通す。

 徳川一門のうち徳川姓を与えられたのは、宗家(将軍家)のほかでは御三家(尾張・紀州・水戸)と御三卿(田安・一橋・清水)のみである。御三家は初代家康の子供が家祖。御三卿は8代吉宗の子や孫が家祖であるため、宗家により近い家だった。

 御三卿の家に生まれると徳川一門に養子入りするのが通例。春嶽もその一人で、天保9年(1838)に福井藩松平家に養子に入る。徳川一門の家のなかでも宗家とはたいへん微妙な関係にあった家だった。福井藩の藩祖は、家康の次男で結城家に養子に入った秀康である。

 既に家康の嫡男信康がこの世にいなかったため、長幼の順からすると秀康が跡を継ぐところであった。しかし、家康は秀康を結城家に養子に出し、三男の秀忠に家督を譲ってしまう。その子孫が代々将軍職を継ぐ。

 一方、秀康には越前北ノ荘(福井)67万石を与え、福井藩松平家の藩祖とした。さらに、親藩大名では御三家に次ぐ家格として位置付けたが、秀康の子孫にとってみれば、本来は自分の家こそが将軍を継ぐべきという意識が消えなかったのは無理もなかった。

 そんな宗家に対する対抗意識も相まって、秀康の嫡男松平忠直は幕府に対して反抗的な姿勢を取る。幕府から危険視された忠直は豊後へ配流されるが、その後も藩内は内紛が絶えなかった。所領も32万石にまで減らされる。

 そして、宗家から養子が送り込まれる事例が続くようになり、宗家との関係に隙間風が吹きはじめる。まさしく尾張藩と同じであり、幕末に福井藩が宗家と距離を置く伏線となっていく。春嶽の新政府入りにもつながるわけである。

有力外様大名との連携を模索する

 藩主となった春嶽は藩政改革に努めた。嘉永6年(1853)にペリーが浦賀に来航すると、幕政への参画を目指すようになる。

 福井藩は親藩であったため幕政には関与できなかったが、同じ立場にあった外様大名と提携する形で幕政進出を試みる。春嶽が最も信頼を置いた外様大名は薩摩藩主島津斉彬であった。

 折しも、幕府では将軍継嗣をめぐる争いが起きようとしていた。13代将軍家定には跡継ぎがいなかったため、春嶽は水戸藩から一橋家に養子に入っていた慶喜を擁立しようと考える。慶喜を将軍の座に就けることで、幕政への発言権を確保しようとしたのだ。

 春嶽は幕政進出を目指す斉彬たち外様大名や慶勝たち親藩大名を味方に引き込んだ。幕末史では慶喜を将軍に推す大名たちは一橋派と称される。

 一方、それまで幕政を取り仕切っていた譜代大名は、家定の従兄弟にあたる紀州藩主の慶福を推した。これを南紀派と称した。その旗頭こそ、譜代大名筆頭の彦根藩主井伊直弼である。

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