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妻の言葉で「売り上げゼロの恐怖」を突破

インドで日本食レストランを開業

2016年7月1日(金)

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 この連載では、40年にわたってインドビジネスにかかわり、現在はインドに在住してビジネスを続けている元商社マンである、私、中島敬二の体験の一端を3回にわたって紹介します。
 私は住友商事の社員として長年インドビジネスに関わり、定年後、知人に持ちかけられて現地で金型メーカーの経営に乗り出しました。あいにくその事業は軌道に乗らず、老後の資金をそっくり失いましたが、それにもめげず、70歳を目前にしてインドでコンサルタント会社や日本食レストラン、ホテルの経営を相次いで開始しました。
 私の記憶に残るたくさんの“インドビジネス戦記”の中から、退職後に経験したそれらの起業の顛末をお話ししましょう。

インドの子供たちと筆者

 私が最初にインドでのビジネスに関わったのは、住友商事に入社して7年目、1974年のことでした。以来、「インド通」として長年インドに関わり、多様な案件に関わってきました。定年退職後も、住友商事が傘下におさめた企業の役員となることを要請され、インド政府のアドバイザーも務めました。

 その頃になると、このままインドに住み、インドと日本の小さな架け橋になるのも悪い話ではないと思い始め、現在に至ります。退職後には、現地で金型メーカーの経営に乗り出しましたが失敗し、老後の資金をそっくり失ってしまいました。

 ここでは、それでもめげずに始めた、日本食レストランの起業のお話を紹介しましょう。

 2013年初頭、私はデリー近郊のマネサールに小さなレストランを開業することを計画しました。マネサールは、自動車メーカーのスズキや、ホンダ(二輪)など、日系の自動車メーカーの工場があることで知られている街です。

 レストラン事業にまったくの素人である私がレストランを始めようと考えたきっかけは、家族同様のお付き合いをしているインド人コックが、「中島さんの家で働きたい」と言ってきたことでした。彼は私の元勤務先企業で働いていて、10年間かけて家内が日本料理の達人として育てたのです。

 彼はコックとして平均以上の給料を得ていますが、3人の娘の結婚費用で預金はゼロとなり、50代になって将来に不安を抱いたといいます。彼の日本料理の腕前は日本人コックと比べても遜色がありません。そこで私は彼のために小さな日本食レストランを作ろうと考えたのです。

「間違いなく失敗します」との助言を無視

 マネサールは自動車部品を主体とした日系企業が集積している場所ですが、外食ができる店はマクドナルドが1軒あるのみで(その後、インド人経営の弁当屋ができました)、現地の日本人は食事面で大変不自由していたのです。彼らから、マネサールに日本食レストランができれば嬉しいとの声をたびたび聞いていました。

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「めげない日本人商社マン、インド70歳起業記」のバックナンバー

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「妻の言葉で「売り上げゼロの恐怖」を突破」の著者

中島 敬二

中島 敬二(なかじま・けいじ)

Nakajima Consultancy Services社長

1944年生まれ。インド在住。慶應義塾大学を卒業後、住友商事に入社。長年インドビジネスに関わり、定年後、インドで起業。挫折も味わうが、現在は日本食レストラン、ホテルなどを経営する。

※このプロフィールは、著者が日経ビジネスオンラインに記事を最後に執筆した時点のものです。

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