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大皿料理店で失敗し5000万円がどぶに

「大戸屋」で稼いだ金は別の事業に出ていった

  • 三森 智仁

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2017年8月24日(木)

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 それにしても栄一はなぜ、定食店で成功したのだろうか。理由の一つは「家」にあると私は考えている。

 三森家は前述のように、江戸時代の旅籠から明治時代は穀物卸、戦後は観光ぶどう園へと、時代の変化に合わせて商売を移してきた。分家筋を見渡しても、鉄工所を経営したりと商売人がやたらと多い。そのため親戚が集まると、決まって商売の話になる。そうして互いが持っている情報を交換し合い、商売に生かすのだ。

 生前の父もそうだった。
 山梨に戻ると、必ずといっていいほど親戚に電話をかけた。

 親戚には大戸屋のフランチャイジーをしている人などもいて、そうした人たちと、「こうすれば、絶対にお客様が喜んでくださる」「どうすればもっとご飯がおいしく炊けるだろう」などと相談していた。酒は入っても馬鹿話は一切なく、仕事の話ばかり。「人様のお役に立つことをしないといけない」という話も、親戚とよくしていた。

 三森家が特別なのではなく、商売人が多い家はどこも、このようなものではないか。栄一も、家族や親戚が交わす商売の話を子守歌代わりに聞かされながら、育ったはずだ。

 実子を亡くしたことで自暴自棄になった時期はあったが、そこから転じて商売に没頭し、成功できたのは、商売のあり方を三森家で刷り込まれていたからだと思う。

養父の急死

 その栄一が倒れた。父が洋食店に就職して半年後のことだ。

 栄一は大の酒好きだった。食堂で深夜まで働きづめの日々を送りながら、毎日のように酒を飲んだ。不摂生がたたったのだろう、肝硬変を患い、入退院を繰り返すようになり、父が就職した頃には無理が利かなくなっていた。

 養母のマコトは、父に「お店を手伝ってくれないか」と頼んだ。

 こうして父は洋食店にいったん休職願を出し、大戸屋食堂に入る。

 食堂に立ちながら、栄一の快復を待っていたが、願いむなしく1979年1月、栄一は肝硬変で永眠した。享年57歳。

 それから36年後に、父は栄一と同じ57歳で亡くなる。これは単なる偶然だろうか。それとも、人智を超えた何かが働いているのか。

 前述したように、父は私に「どうしてここまで大戸屋を発展させられたのかというと、おじいちゃん(栄一)が俺の中に入ってきてくれたからだ」と話した。

 そんなことは現実にはあり得ないと思われるかもしれないが、同じ57歳という年齢で他界したことなどを考えると、もしかしたら栄一と父が本当に一心同体となって、大戸屋の経営を続けていたのかもしれない。

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