本田直之の「賛否両論=オリジナリティ」

梅のリキュールのヒットが、日本酒の活路を開きました。

第14回「平和酒造」・山本 典正氏(前編)

文:本田 直之 / 編集協力:上阪 徹 / 写真:今 紀之(特記なき写真)  11.02.2017

ワインで世界的な権威のある賞「インターナショナル・ワイン・チャレンジ(IWC)」。2007年から追加された日本酒部門は国外最大級の日本酒コンテストですが、そこで2年連続リージョナルトロフィーを受賞した日本酒があります。

和歌山県にある平和酒造の「紀土(きっど)大吟醸」です。

日本一の梅の生産量を誇り、多種多様な梅が作られている和歌山県。大ヒットした、南高梅をはじめとする和歌山県産の天然果実を使ったリキュール「鶴梅」シリーズを造っている蔵、と書けば、ご存じの方も多いかもしれません。

1928年創業の平和酒造で一連の新しい酒造りが生まれたのは、3代目が会社に戻ってきてからのことでした。京都大学を卒業後、2年間のベンチャー企業勤務を経て、2005年に入社した山本典正さんです。

もっといいお酒ができるのではないか。若い人など、もっとたくさんの人に飲んでもらえる日本酒が造れるのではないか。日本酒のイメージを変えられるのではないか……。そんな取り組みを推し進め、パック酒を大量生産していた酒蔵を大きく変えていくことに成功しました。

そればかりでなく、同じく2代目、3代目として酒蔵に入った若い酒造りの蔵元たちと協力し、日本酒試飲会「若手の夜明け」を2007年に立ち上げ、代表を務めています。

当初はわずか100人ほどの参加者しか集まらなかった「若手の夜明け」は、今や3000人を動員する、国内でも有数の日本酒イベントになっています。僕が山本さんに初めて会ったのも、このイベントでした。2015年のことです。日本酒の若い造り手と試飲に来る若者たちで会場はギュウギュウ詰め。イベントは大盛況でした。日本酒ブームと言われていますが、なるほど日本酒の勢いを感じさせる、僕も驚いたイベントでした。

もちろん、古い酒蔵が簡単に変われたわけではありません。山本さんは別の酒蔵で修業をしてきたわけでもない。もっと言うと、「日本酒はおいしくないもの」と思っていたのだそうです。そこからどのようにして酒蔵を変え、オリジナリティを評価されるようになっていったのでしょうか。

■連載14 平和酒造 代表取締役専務 山本 典正氏

和歌山県の平和酒造が作る日本酒「紀土」は、「インターナショナル・ワイン・チャレンジ(IWC)」の日本酒コンテストで2年連続リージョナルトロフィーを受賞するなど、国内外から高い評価を受けている。梅のリキュール「鶴梅」シリーズも大ヒットした。日本酒イベント「若手の夜明け」を開催するなど、若い蔵元の支援にも取り組んでいる。
(写真提供:本田 直之氏)

京都大学経済学部を出て、人材系ベンチャーで猛烈に働く

山本さんは1978年生まれ。生まれ育った実家の酒蔵を、高校までは継ぐ気満々だったのだそうです。

「子どもの頃から父や母が酒を造って売っている姿を見て、すごくいい仕事だなぁ、と思っていたんですよね。造っているお酒を、お客さんが喜んで買ってくださるわけです。人に喜んでもらってお金をもらえるって、いい循環だな、僕もそういうことをやりたいな、と」

しかし、インターネットの時代が始まり、ITベンチャーが次々に出てくるようになると、意識が変わり始めます。京都大学経済学部に入学したことも大きかった。

「ちょっと上の人たちがITベンチャーの社長になったりしているのを見ると、自分にも何かやれるんじゃないかと思うようになって。父からは、農大に行けば食品卸の会社を就職先として紹介してあげられるよ、なんて言われたりもしたんですが、自分なりにいろいろ考えると、それだけだと面白くないな、と」

(写真提供:山本 典正氏)

山本さんは京大卒業後、人材系のベンチャーに入社します。ハードワークだったそうですが、とてもいい経験をしたと語ります。

「朝早い電車に乗って終電で帰る、みたいな、労働環境でいえばものすごく厳しい状況でしたけど、みんなやりがいを持って楽しそうに働いていました。僕自身も本当にいい経験をしていると実感していましたし、先輩も尊敬していました。ここで、人はどうすればモチベーションを持って働けるのか、学びました」

楽しければ頑張れる、ということです。一方で、気づきもありました。自らベンチャーを興すことの難しさです。

そんなとき、父親が体調を崩してしまいます。2年で退職を決意し、実家の酒蔵に戻りました。日本酒のことは何も知らなかったため、東広島の独立行政法人「酒類総合研究所」で2カ月、酒造りの体験をしました。

「幼い頃から酒蔵の中に遊びに行き、酒造りを担う蔵人さんの膝の上にちょこんと座って『笑点』を見たりしていたんですが、実際に自分の手で酒造りをしたのは、このときが初めてでした。これが面白くて。ただ、振り返れば、まだ酒に対して何の理解もしていないし、モノづくりはわかっていなかったですよね」

戻って真っ先に手がけたのが、後に大ヒットする梅のリキュール「鶴梅」でした。ちょうど梅酒ブームがやってきていた頃。平和酒造には10数年来造っていた原酒があったのです。

「日本酒もそうでしたが、梅酒もパックの安い酒しか造っていなかったんです。でも、味もいいし、このままではもったいない、ちゃんとしたいいものが出せるんじゃないか、と直感的に思って。20代、30代の若い飲み手に刺さるんじゃないか、とハイブランドのリキュールを出したら、これが大ヒットしたんです」

そして、いいものを造るとどうなるか、山本さんは肌で実感することになります。