ネオンとオンナ

ネット時代の炎上は「レイヤー違い」と「ハードな張り手」から起きている

燃えるものなき砂漠を流浪しながら、生暖かくネットと対峙しよう

文:鈴木 麻友美 01.24.2018

ネットで有名になりたい、夢を叶えたい、なんて思わないけど、そういう人々を生暖かく観察するのが生きがい。そんな立ち位置からネット上のディスり合いを眺めていると、炎上の原因が見えてくる。まったく立ち位置が違う相手と同じ土俵で無理やり議論しようとする「レイヤー違い」と、コンテンツの質ではなく所属や肩書きばかりで自分の存在価値を主張する「ハードな張り手」だ。

当たると評判の星座占いで今年の運勢が発表され、知人たちがTwitterやFacebookでシェアしていた。

いつもは占い全般や診断もの全般をスルーするほうだが、友人たちが絶賛していた占いがあったので、ひとり酒をちびちびやりながら自分の星座のページを見にいってみた。

「あなたは社交的で強いけれど本当は誰より繊細」的なことや生活の中で気をつけるべきこと、やめるべき言動などが気持ちのいい言葉で書いてあった。ヤダ!わたしのことじゃん、あぁちょうどそれモヤモヤしてたんだよね〜当たってるじゃーん。自己評価と他己評価の溝や、手つかずの潜在的な課題に温かいゲルを流し込んでくれる感じ。心地良い温浴効果感。

「レイヤー」が違う人たちが、同じ土俵で無理やり議論し炎上する、という罠

ふ〜んと思いながら、他の星座も念のため見にいった。そうしたら、全部の星座の運勢や解説で「ヤダ!これわたしじゃん!」な、温かゲル現象(なんだそれ)が起きた。そうかそうか。

これって属性ごとの当たり外れが大事なのではない。占いの記述が属性同士の共感の軸になっていて(それはSNS時代ならなおさらで)、その共感は心の栄養だったり、背中を押したり、優しさみたいなものも生む気がした。それで言うと、人間を12個くらいで割るのもちょうどいいのかも。1個でいいのは、閉ざされた土地における絶対的な宗教くらいだろう。去年流行った9つの要素の診断メーカーも、同じ要素に属する似たもの同士の引き寄せ装置として機能しており、コメント欄が盛り上がっていた。

占いの結果はたいてい自分以外の属性も見られるものだけど、人はそれをあまり見ない。そもそも世の中の人は多分、占いなんて一切見ないよっていう人間と、占いが好きで自分ごととして語る人間にざっくり二分される。

でもこの二者の間では、例えば特定の◯◯占いに関する「当たる?当たらない?」といった二項対立の議論は成立しない。二者のレイヤーがまったくもって違うから。

なんだろうこの構図って。既視感がある……。ネットの世界における共感や炎上によく見られる、レイヤーが違う人たちが同じ土俵で議論しようとして発生するあの感じ。

もう少し典型的な話で言おう。比較的きれいな妙齢女性が自撮りや彼氏とのツーショットを加工で盛ってばんばんアップする。彼女に近いorシンパ的なレイヤーは「超美人〜」「憧れるぅ!」「そのお店わたしもよく行く〜うちのダーリンが予約するのは個室が多いけどネ」などと称賛orマウンティング反応し、その脇で“つながりたいおじさん”が「おはようございます。本日もよろしくお願いします」。

そこから何億光年も心理的距離が離れたネットの砂漠の民は「加工しすぎて背景歪んでるヤバいww」「彼氏のアカウントに元画像見つけた」「BBAの地鶏メシウマ」さらに飛躍すると「ブスww」となる。

一方、その中間くらいにいる遊牧民的なレイヤーは「美人なのに、もったいな!」「見てらんなくて、ミュートにした」となる。(蛇足ですが私の友人はだいたい砂漠の民か遊牧民)

この現象は見る人によっては「彼女は美人なのか?ブスなのか?」の二項対立に見えてしまう。

そうではない。SNSによって多種多様なレイヤーが可視化されるようになった今だからこそ、どこのレイヤーに属している人がどんな意見と距離感を持っていて、どんな向き合い方をするのかを見極めることが賢明だと思う。

別の観点から言えば、私たちのようなゆるいネッポリ(ネットポリス)が生暖かくSNSを楽しむ際には、“試合”の中身にどう熱中するかというよりも、“どこの座席に座るか”を選ぶところから始める。自分の視点というか視座をあらかじめ設定しておけば、自分がどんなレイヤーに属しており、どんなコンテンツに共感するのかが自覚しやすい。この結果、いちいちレイヤーの違う人によるコメントに感情を揺り動かされることが少なくて済む。