ネオンとオンナ

私は「おじさん」に憧れていた

ネオンが好きなアラサー女性によるおじさん考

文:鈴木 麻友美 05.26.2016

来世では「おじさん」になりたいと思うほどに「おじさん」に憧れている。“ものさし”を与えてくれて、そして毒にも薬にもなるおじさんとは、いったいどういう存在か? ネオンが好きなアラサー女性によるおじさん考。

小学校の時分から「おじさん」に憧れていた。異性としての憧れの対象ではなく、なんというか男の子が「大きくなったらスーパーマンになるんだ!」的な方向性のもの。

当時から好きだった島耕作のせいかもしれないし、家でお酒を飲みながら好き放題にしている(ように見えた)父や叔父の姿に憧れたのかもしれない。その姿が私には自由の象徴のように見えたのだろうと思う。

30歳を過ぎた今も、生まれ変わったら来世ではおじさんになりたいと思う。(そして赤提灯やネオンに吸い寄せられてしまうのはきっと前世が蛾の類いだから)
彼らには実に豊かな多様性があって、40代後半にさしかかると「これが同じ48歳の生き物なのか」とがく然とするほどルックスから中身にいたるまでバラける。

それをながめるのも人生の縮図みたいで楽しい、なんて言うと動物のように客観視しているようだけどそれはちょっとちがう。

おじさんは「ものさし」をくれる

新卒で入った会社が男社会だったわたしは、おじさんの教育と叱責でわずかながら成長し、飲み屋の善し悪しの判断と酒場の作法を教えられ、めんどくさいおじさんのいなし方でコミュニケーションの妙を学んだ。

大人数の会食になれば、頑固なおじさんたちがそれぞれ、やれ座敷はイヤだ腰が痛い、やれ肉が食いたい、創作ほにゃららなんて言語道断だ、などと同時に言ってくる。それらの最大公約数かつ「絶対的に旨い店」を手配するというミッションが仕事以上に大事なのだと教えてくれたのもおじさんだったし、じゃあ結果だしてやろうと脳内データベースをインプットしてはアウトプットしを繰り返した。スイーツやカフェ飯がニガテだった自分にもちょうどよかった。

わたしにとってのおじさんは、「ものさし」をくれる存在だ。

その中でも食は最たるもの。

自分では行けないような店に連れていってもらいとびきりの旨い料理に出合ったら、店の大将にヒントを聞いて、耳コピならぬ舌コピして自炊で再現する練習を繰り返す。

ある程度の再現ができたら、それを家族や恋人、友達に食べさせて喜んでもらう。

各ジャンルのいい店を一度知っておけば、ただバブリーなお店に憧れてうわつくこともなくなるし、高いのにおいしくないお店を選んでしまうリスクだって減る。

その体験の積み重ねで、自分の限られた可処分所得でいける、最大限においしいであろう店への嗅覚は磨かれる。おおげさかもしれないけど、審美眼ってのは体験でしか得られないから。

バブルもバブル崩壊も知らない我々アラサーは、おじさんの経験値と知識がつくるおじさんというスクリーンにちょっとした豊かさの幻影を写しながら生きているのかもしれない。

雑誌などではよく、若い頃おじさんでいい思いをした女性は大人になって苦労するなんて言われたりもする。同世代の男性が行けないような店に連れていってもらうことで自分の価値を見誤ったり、責任のともなわぬ優しさに慣れてしまうからという寸法だ。

けれどそれは、景気と暮らし向き、そして自身の女性としての価値はずっと右肩あがりし続けると過信した時に発生する現象だ。今のご時世で、よっぽどのおっぺけぺーじゃない限り、そんなに心配されることではない。