ネオンとオンナ

「私って顔広い」が口癖のカオリ嬢が醸す恐怖の本質

他者評価を自分から語ってしまう人

文:鈴木 麻友美 06.22.2018

共感と炎上を両方呼ぶネット有名人。ふつうに生活しているのに、そんな要素を醸し出せる“歩くネット有名人”的な女、カオリ嬢(仮)という友人がいる。今回は、こんな情報過多な時代をひとりで加速させる、情報ぶんまわし系女・カオリ嬢の話。口癖は「私って顔が広い」「私ってほんと持っててヤバイと思うんですけど〜」である。

人は1日に文庫本1冊ぶんしゃべる、みたいな話を以前聞いたことがある。男性に比べて女性は3倍しゃべる、などとも。最近ではその文庫本1冊のトークに加えて、各人のSNSもあるわけだから、人が1日に発信し受信し処理する情報量ってどんだけと思う今日この頃。

私の夫の祖父は作家の齋藤茂太という。彼の著書『さよなら、ヒロイン・コンプレックス』(三笠書房、現在は絶版)を読んでいたら、35年前の時点でも「現代」の情報化社会の情報の氾濫を憂いていた。かくいうわたしは「情報処理」が大好きで、昔でいう活字中毒みたいなもの。だから延々情報と接したりSNSを見続けたところで、「ただ楽しい」という状態が続く。とか言うとなんか意識高げで実質はただのソフトネッポリなのですが……。

ちなみに自分の中の「いいね」ボタンは5通りあって、

あぁ・人間関係上いいねしとこ。
いいね(棒読み)・人んちの子ども写真とか結婚したとかナントカ。
ウケる・センスのある素晴らしい投稿。
え?!まじ・有益またはメシウマ情報。
おいおいおい(無いわぁ、ん?ありか)・処理に困る。

書きながら、前回書いたしーちゃんの「イイ女のさしすせそ」ならぬ「そ」とのギャップが自分でも悲しい。

ネットの楽しみは「痛くもかゆくもない情報」の大海原の中に「え〜!まじ」と「おいおい」を見つけることであるが、割合その2つは同じ人間のSNSから発せられる。

共感と炎上を両方呼ぶのがネット有名人だけど、別にネット有名人じゃなくふつうに生活しているのにそんな要素を醸し出せる歩くネット有名人的な女、カオリ嬢(仮)という友人がいる。ネッポリ的にも情報処理に困惑する対象がいるが、彼女はそのひとりだ。

前置きが長くなってしまったけれど、今回は、こんな情報過多な時代をひとりで加速させる、情報ぶんまわし系女・カオリ嬢の話です。

口癖は「私って、顔広いのでほんと大変ですよ」

カオリ嬢は1日に広辞苑1冊分くらいしゃべる。圧強め、声大きめ、でもマウンティングやハラスメントとは無縁(多分)。オラオラが過ぎるけど、明るくチャーミングな子だ。一緒に仕事はしたことないけど、グイグイテキパキこなすんだろう。知らんけど。

彼女のことは面白いし好きだけど、飲んでいるとたまに底知れぬ恐怖を感じる。

最初に感じたのは、彼女が自分語りをしていた時。彼女自体は決して怖くないのに、わたしの心の奥底にふつふつと「あ、こわ!」が生まれたのだ。

カオリ嬢と対峙するには体力がいる。だが、たま〜にふと会いたくなる。彼女が出す恐怖感の源泉はなんなのかが気になりはじめると会いたくなるのだ。

広告やメディア関係者でいわゆるザ・業界人な風体の人って絶滅危惧種で、わたしのように日々テレビ界隈で働いていても、めったにお目にかかれない。

が、メディアの仕事をしているカオリ嬢は、若いのに常時風速30メートルくらいで業界風を吹かせている。彼女と話していると、台風中継の暴風雨の室戸岬が脳内に浮かぶ。業界風の発生源はなんだろう。

わたしのまわりの友人は大概こじれていて、ものごとの見方の入射角とか視座のアイデンティティにより仕事をしている人が多い。そのためアウトプットの中身は、好き嫌いの激しさや、斜め目線の入射角や、膨大かつマニアックな知識が生み出すセンスに基づいており、そのぶん愛おしい。だけれど、今流行りのコミュニティビジネスに携わるネット有名人らの持つストロングな風は吹かさない。

一方、カオリ嬢はマスなものが好きで、わたしのほかの友人のようにカルチャーや教養ら思想やらでこじらせていない。だが、一般会社員でありながらストロングな風を吹かせている。仕事で出会った著名人やら業界人を「親友」にし、SNSや会話にバンバン登場させていく。そして口癖が、「私って、顔広いのでほんと大変ですよ」だ。

と彼女について色々思い出しながら書いていてやっと気づいた。自分にとっては、彼女のミーハーな感じとかオラオラな自分語りが怖いんじゃない。彼女がよく言う

「私って、顔が広い」
「私ってほんと持っててヤバイと思うんですけど〜」

っていう枕言葉が怖いんだ。(ちなみに「持ってて」というのは、サッカー界隈でよく使われていた流行言葉の「持ってる」で、運がいいとか引きが強いという意味)

つまり、恐怖の対象は、本来人から付けられるべき他称的な評価を自分で発する行為なんだ。