トライセクター・リーダーの時代:現代の「宮澤賢治」ストーリー

マッキンゼーを経てNPO立ち上げ。「Mr.復興」と呼ばれた男〜RCF

第3回 藤沢烈氏(一般社団法人RCF代表理事)

文:金野 索一 09.03.2015

「企業はビジネス以外の領域で自分たちの存在意義を発揮しないと、社会にいる意味がないと気づき始めた」。こう語るのは、震災復興のコーディネート業務を手がけるRCFの藤沢烈氏。復興支援の現状と現場に望まれるリーダーの在り方を聞いた。

今、政治・行政、企業、非営利セクターという3領域にまたがって活躍する「トライセクター・リーダー」が、続々と登場している。

今回紹介するのは、一般社団法人RCF代表理事の藤沢烈氏。藤沢氏が立ち上げたこの法人は、2011年4月、東日本大震災の復興に向けた調査を行う団体として発足した。復興事業の立案や関係者間の調整役である「復興コーディネーター」としての役割を担う。RCFのメンバーは、震災復興の対象である地域住民、企業、復興活動にかかわるNPO(非営利組織)、そして自治体といった多様なステークホルダーと協働しながら、地域の課題解決に取り組んでいる。

その活動内容を見る限り、RCFの活動内容は、先に挙げたトライセクター・リーダーそのものだ。トライセクター・リーダーとして必要な素養は何かを探るべく、藤沢氏にRCF立ち上げの経緯や、震災復興支援の現状について聞いた。

藤沢烈(ふじさわ・れつ

1975年生まれ。一橋大学卒業後、マッキンゼー・アンド・カンパニーを経て独立。NPO・社会事業等に特化したコンサルティング会社を経営し、「100年続く事業を創る」をテーマに講演やコンサルティング活動に従事。創業前の若者に1億円投資するスキームを企画運営し、話題を呼ぶ。2011年3月11日に発生した東日本大震災を機にコンサルティング活動を休止。震災復興を支援する一般社団法人RCF復興支援チーム(2015年9月1日にRCFに名称変更)を設立。復興庁政策調査官も務め、「Mr.復興」との呼び名もある。2015年3月に『社会のために働く』(講談社)を出版。

金野:藤沢さんはコンサルティング会社出身で、NPOに関わり、震災復興では行政セクターにも所属していました。まさに、企業、行政、NPOと、セクターの壁を超えて活躍してきたトライセクター・リーダーの典型例と言えそうです。

藤沢:おっしゃる通りで、僕はもともとは企業セクターにいた人間です。NPOの支援などもやっていたのですが、東日本大震災が起きて、いろいろな経緯を経て内閣官房の震災ボランティア連携室に所属することになりました。そこに1年いて、翌年の2012年には復興庁に在籍しました。

結果として都合2年半の間、国の立場で働きました。もっとも、非常勤でフルタイムではなかったので、NPOにおける復興支援活動との二足の草鞋(わらじ)でした。

金野:国の仕事はどのような雰囲気だったのでしょうか。

藤沢:非常勤の国家公務員だったので、1日1万4000円と報酬が決まっていました。工数としてはそれほど多くはなかったのですが、正直「これはやればやるほど大変だな」と感じました。ただ、制度の中身がわかりましたし、国の立場で県や市町村と関わることができたのは貴重な経験でした。

金野:マッキンゼーを出て独立した後は、どのような仕事をしていたのですか。

藤沢:ベンチャーへの投資、また大手企業の新規事業に関するコンサルテーションなどをしていました。2003年にマッキンゼーを辞めたのですが、そこから2011年までは、そうしたことをしていました。基本はビジネスが目的だったのですが、それと並行して、最近ではプロボノなどと言いますけど、半ばボランティアでNPOのお手伝いもしていました。

金野:そして震災が起こったと。

藤沢:それまで自分が支援していたNPOの組織は20くらいあったのですが、彼らはほぼすべて東北へ向かいました。それを見ていて、自分もどうかかわるべきかを考えました。いろいろ考えて、リサーチをしようと結論づけました。

金野:具体的にはどんな内容でしょうか。

藤沢:震災という緊急時に、現地ではどういうことが課題なのかを定量的に分析しようと考えました。そんなことをやっている組織はなかったので、結構、興味を持たれました。当時、宮城県には避難所が400カ所ほどありましたが、一カ所一カ所の食事情や衛生環境、プライバシーの関係、たとえば男女できちんと更衣室が分けられているかどうか、ついたてがあるかないかなどを調べ、整理し、傾向を分析しました。その上で、どのような大きな課題があるのかを把握しようとしたわけです。

金野:当時を振り返ると、個々のボランティア団体は一生懸命頑張っているけれども、うまく“交通整理”ができていない時期でした。ですから確かに、そうした調査は重要だったのでしょうね。

藤沢:定量的に分析すれば、感染病の起こるリスクもわかります。また「震災から2週間も経っているのに、ここには必要な物資が来ていない」といった個別の事情も把握できます。だからどこにどのような支援を厚くすべきかが見えてきます。

そうしたレポートを整理して行政に届けたり、NPOに支援に行ってもらったり、また一部の情報はメディアに流して取り上げてもらいました。

金野:当初その活動は1カ月で止めるつもりだったそうですね。それがいつの間にか、もう4年半も続けているわけですよね。

藤沢:1カ月では全然終わらなかったので、自分としては1年に延長しました。ただ、交通費なども使うので区切りを付けなくてはいけないと思って、経費が300万円になったら止めようと決めました。

ところが、活動を始めてちょうど1カ月くらい経った頃に、日本財団が1000万くらいの資金を出してくれたのです。それで止める機会を見失いました(笑)。


震災が発生した年の夏頃、国内の有力企業が、過去に例のない規模で金銭面での支援を打ち出した。孫正義氏の100億円寄附が有名だが、最も多くの寄附をしたのはヤマト運輸で140億円。また三菱商事は135億円。日本企業全体での寄附総額は経団連が把握している範囲でも2000億円に達した。

ところがここに問題があった。お金はあっても、どう使えばいいのかがわからなかった。被災した範囲も広いため、一カ所に寄附をすれば有効に活用されるというわけでもなかった。

「多くの額が日本赤十字に集まりました。赤十字は義損金という形で、個々人に均等に分けて届けました。これも大変有意義でした。しかし、この形は企業からすれば、自社がワン・オブ・ゼムになってしまいます。また、個人を支援するだけでは復興は進まないという思いもありました」と藤沢氏は語る。

つまり、どの企業も、ビジネスと同じように復興活動でも独自性を出したがったのだ。そんな折に、藤沢氏は企業の議論の相手となり、一緒に支援の仕方を考えた。その例は後述するが、相手となった企業は、グーグル、ジョンソン・エンド・ジョンソン、UBS銀行などであった。

「人が集まる場づくりをしたかった」

金野:藤沢さんは学生時代に飲食店の経営もされていたそうですね。

藤沢:1998年、22歳の時ですね。その前年から企画を考え始めていました。自分はもともと理系で、高校生のときは火山学者になりたいと思っていました。ところがある失恋を契機に、「人間とは何なのか」と考えるようになってしまい、思いっきり「文転」してしまったのです。

大学に入った頃、増進会出版社がスポンサーになってくれて大学生向けの雑誌を出すようになりました。当時はまだインターネットはなかったので、全国を回って、ミニコミ誌みたいなものを作って発信したりもしていました。要はネットワーカーなんですね。人と人の輪を作りたかったのです。ネットワークパーティなどもよく主催していました。

そこで、「狐(きつね)の木」というサロンバーを作りました。目的は同じです。人が交流してさまざまな議論ができたり、文化的に何かを発信できる場所にしたかったのです。

金野:当時はそういう時代でしたね。

藤沢:ビジネスインターンシップもこの頃に始まりました。社会起業という言葉も生まれました。そうしたキーワードにも敏感に反応しました。特に社会的な活動には興味がありました。ベースとなったのは、阪神淡路大震災と、オウム真理教が起こした事件です。社会不安の時代でしたから、「自分たちは学生だけど何ができるだろうか」と考え始めていたのです。

金野:一昔前であれば、アナーキストになりそうな雰囲気ですが。

藤沢:自分のやりたいことは、それ以前の世代の市民運動、反体制的、あるいは反企業的な取り組みは違うと思っていました。むしろ、社会起業家が提言していた、事業的な観点で社会を変えていくというコンセプトに共感しました。

当時はインターネット分野でベンチャー企業が生まれた時代です。そのような時代のテーマで、各界からこのサロンバーに集まってもらって議論する。1日店長みたいに、毎日話をする人を呼んで、その人の話を聞きながら飲むといった場づくりでした。

金野:でも、長続きはしなかったのですか?

藤沢:ダメでした。平日はほとんど開店休業だったのです。スポンサーが東京の王子にある電気店だったので、狐の木は王子にありました。飲食店を経営するには、あまりに立地がダメでした。そのとき、自分としては経営がやりたかったのではなく、文化づくりをしたかったことに気がつきました。

1年くらいでスタッフも離れて、場の提供もできなくなり、2001年に閉店しました。

金野:そこから大学に戻られたのですね。

藤沢:はい。大学生活はかなりメチャクチャでした。2回休学をして1年留年して、3年ダブっていた状態で店を畳んで戻りました。都合7年間くらい大学にいた感じです。最後の頃は、周りには助手だと思われていたようです。

金野:当時はNPOも数多く生まれた時代でした。

藤沢:自分が知っているだけでも20は立ち上がったと思います。ただ残念ながら、ほとんど活動ストップですね。数少なく残った団体に共通していたのは、わずかでも収益基盤を持っていて、ある程度キャッシュを回せているところでした。決して大きな金額ではなくても、わずかでも回っていれば続けられるということを知りました。

どれだけ熱い想いがあるかとか、どれだけ社会に対して的確なストーリーを持っているかというところでの差はなかったと思います。ただ、収益基盤の差で継続できるかどうかが決まっていました。収益基盤がある団体はそこから20年以上続いて、大きな成果を生み出しています。

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