インタビュー 情熱と挑戦の先に

「音楽を一生の仕事にしていくのだと覚悟できた」──宮田和弥/J(S)W

ミュージシャン/ジュン・スカイ・ウォーカーズ(前編)

文:十代目 萬屋五兵衛 / 写真:今元 秀明 01.29.2018

1990年代に爆発的な人気となりバンドブームをけん引したバンド・JUN SKY WALKER(S)(ジュン・スカイ・ウォーカーズ、略称:J(S)W)。バンドの顔として前面に立つのはボーカルの宮田和弥。頂点に上り詰めた後のソロ活動と迷い。音楽を通して自らが成すべきことを自覚し、再びバンド活動へ。折しも2018年、J(S)Wはメジャーデビュー30周年を迎える。「音楽を一生の仕事にしていくのだと覚悟できた」と語る宮田の音楽活動の軌跡をたどる。(前編、敬称略)

「バンドブーム」という言葉を知っているだろうか。1990年代初頭に、中高生や若者の音楽ファンの間で社会現象化するまでに至ったムーブメントだ。

このムーブメントは1980年代の終わりから90年代前半にかけて起きたものである。それまで音楽シーンをリードしてきたテレビのヒットチャート番組はアイドル色を前面に押し出していたが、ちょうどその影響力が薄まりつつあったタイミングでもある。バンドブームは若者を中心とした新たな音楽シーンの潮流として受け入れられ、瞬く間に日本全国に広がっていった。

そのバンドブームをけん引した象徴的なバンドが、JUN SKY WALKER(S)(ジュン・スカイ・ウォーカーズ、以下J(S)W)だ。

彼らは全国的な話題にもなっていた渋谷・原宿の「ホコ天」をベースに最も成功したロックバンドと言われている。アマチュアから一気にスターダムに駆け上がった彼らのサクセス・ストーリーに触発され、全国の歩行者天国で演奏をし始めるバンドが急増した。またテレビの深夜番組でも『イカ天』などのバンドをテーマにした視聴者参加型番組が誕生した。紙媒体でも多くの音楽雑誌が生まれ、ブームは一気に加速した。そしてJ(S)Wは一気にスターダムに駆け上がった。

*ホコ天:東京・原宿から代々木・富ヶ谷にかけて日曜になると展開されていた大規模な歩行者天国。多くの若者たちに影響を与え、このホコ天を出身とする多くの歌手やタレントが生まれた。
*イカ天:TBS系の深夜番組『平成名物TV』のコーナー『いかすバンド天国』の通称。1989年からわずか2年弱の間に、850組にものぼるアマチュアバンドが出演し多くの人気バンドをデビューさせた。

宮田和弥はまさにバンドブームのフラッグシップとしての役割を担ったバンド・J(S)Wのボーカルである。

「デビュー当時、俺たちはかなり世間知らずで生意気だったと思います。若かったと言えばそれまでなのですが、俺たちの考え方や価値観が世の中のど真ん中を作っていたと思っていました。正直、ものすごく自信過剰で、天狗(てんぐ)でした。でもそれはある意味でバンドの原動力でもあったんです」

宮田が言う「生意気=原動力」の背景には、デモテープを作っても、それまで見向きもしてくれなかったメジャーレコード会社や、マネージメント事務所が急に手のひらを返すように接してきたことが挙げられる。そんな“大人の都合”に流されないようにと、とがった姿勢を崩さなかった彼らは、さらに多くのファンを夢中にさせた。

しかし多くのバンドと同じように、メジャーデビューから9年後、J(S)Wはメンバー内の価値観の相違を理由に解散をした。

「できるならバンドは解散しない方がいいですよ。どんなにぶつかり合っても主張し、妥協し、一つのものを生み出す。バンド=チームというものは、そのことに価値があると思うんです。そういう意味を理解できたってことは、やっと大人になれてきたのかな?(笑)」

ファンには知られたことだが、J(S)Wは、同じ中学校の友人が中心になって結成されたロックバンドだ。メンバーはいわば気心知れた者同士。一緒に過ごした時間が長く、まさに青春と言うべき10代を共に駆け抜けた面々である。その道の先で成功を手に入れ、曲折を経ながらもJ(S)Wは、2018年にメジャーデビュー30周年の節目を迎える。

音楽人生を振り返りながら、宮田は言う。

デビュー30周年記念としてリリースしたJ(S)W初の邦楽カバーアルバム「BADAS(S)」

「いろいろあったのですが、復活を通して、やっと自分の生業(なりわい)とは何なのかを確認することができました。それがなければ、いまだに悶々(もんもん)としていたかもしれません」

一世を風靡(ふうび)しブームをけん引したバンドのサクセス・ストーリー。そして解散と復活。J(S)Wのフロントマン・宮田和弥の音楽人生をたどりながら、彼が生業という言葉の中に込めた、仕事に対する思いや意味を考察していく。

学校の寮で6年間音楽漬け

(写真提供:宮田和弥氏)

宮田が生まれたのは東京・世田谷区。両親は共に教職についていた。しかし、宮田は期待通りの「良い子」には育たなかった。

「母は家庭科の先生で、親父は体操でオリンピックを目指した体育教師でした。後々、大学の名誉教授にもなるほどでしたから、まじめなタイプでしたね。そんな堅実な両親の元で、俺は小学生のクセに不良だったんですよ(笑)。

“チビ連”と言われる素行不良な子供たちの集団に属し、みんなで喫茶店に行って、親の財布からお金をくすねてきた奴におごらせていました」

チビ連とは、恐らく「ちびっ子連合」の略称であろう。その界わいでは有名なグループだったという。そんな息子の将来を案じ、両親は同じ不良の友達たちが入学する公立中学ではなく、家からも遠い東久留米にあった寮制の自由学園に入学をさせた。

*自由学園:思想家の羽仁もと子と羽仁吉一の夫婦によって1921年に設立。毎日の生活を生徒自身が責任を持って行う自労自治の精神に基づき生徒が主体的に学ぶことを重視している。学生の多くが大人の寮監がいない生徒による自治で生活する寮生活を送っている。
(写真提供:宮田和弥氏)

「今は違いますけど、男子はみんな丸坊主、制服は短パンという非常にレアなスタイルの学校でした。寮生活は、同部屋に中学1年生から高校3年生までが同居するんです。ですから、中学1年生からすれば、高校3年生なんかはものすごい大人ですよ。髪の毛なんか少しでも伸ばそうとしたらすぐに呼び出され、バリカンで刈られてしまうんです(笑) 。縦社会特有の秩序が普通にありました」

5時半起床、21時半就寝という規則正しい生活。テレビは持ち込むことさえ禁止されている厳しさの中、宮田は結果として音楽漬けの6年間を過ごす。

「当時流行っていたドラマなどのテレビ番組は知りません。今のようにPCやスマホ、タブレットなどもないし、唯一、許可されていたメディアはラジカセでした。音楽は自由に聴いて良かったんですね。中学1年生の俺にとって、先輩が部屋で流す音楽が唯一の娯楽でした。ビートルズにストーンズ、レッド・ツェッペリンなどの洋楽がよく流れていて、『今、世の中ではこんな音楽が流行っているんだ』と思い込んでいたんです」

寮生活の中で音楽は生徒たちに欠かせないものだった。生徒たちは自然と楽器に夢中になり、寮内では自然といくつものバンドが結成されたという。

(写真提供:宮田和弥氏)

「先輩たちはギターを持ち込んでバンドを組んでいました。隔月で、寮内で開かれる誕生会があって、先輩たちは自分たちで作った曲を披露していたんです。そんな先輩たちの姿を見て、それまで歌謡曲しか知らなかった俺は、自分が言いたいことを歌にして自由に歌っているその姿に、大きなインパクトを受けました」

バンドをやってみたい。そう思う生徒たちは多かった。宮田にとっても、ここでの生活が音楽人生の始まりだった。

「J(S)Wのメンバー、ギターの森純太は1学年上、ドラムの小林雅之と初代ベースの伊藤毅は同級生です。最初は、小林と伊藤が森君とバンドを組んでいました。俺もそのバンドに入りたかったのですが、入学当初から生意気だった俺を森君は嫌っていました(笑)。だから入りたくても入れず、他の仲間とビートルズのコピーバンドを組んでいました」

学内で結成されたバンド群の練習場所は、構内の音楽室や体育館の用具倉庫だった。数少ない場所を求めて、バンド同士が鉢合わせをしてしまうことも多かった。

「ある時、俺の方のバンドのギターが体調を壊して練習が中止になりました。そんな時に、小林が『もしよければウチの練習を見学しに来ない?』と誘ってきたんです」

森に嫌われていることを知っていた宮田だが、それでも森のバンドに入りたかった。練習しているメンバーの横で宮田は手持ち無沙汰の風情を隠すべく、バンドの演奏に合わせてボンゴを叩いていた。すると森がちょっと歌ってみるか、と声を掛けてきたという。

「嫌われていると思っていたんですけどね。誘いに乗って、ビートルズやRCサクセッションの知っている曲を歌いました。セッションが終わると、森君がバンドに入るかと誘ってくれました」

宮田は4人目のメンバーとして森のバンドに加入した。バンド名は『JUN SKY WALKER』(ジュン・スカイ・ウォーカー)と名づけられていた。そのネーミングを見た英語教師から「グループなのだからSを付けないと間違いだ」と指摘をされた。また『ビートルズやローリング・ストーンズなどの海外で成功したバンドはみんな『S』がついていた』と、後に『JUN SKY WALKER(S)』に改名された。